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NHK交響楽団
バストロンボーン奏者
黒金 寛行
Hiroyuki Kurogane
福島県いわき市出身。東京藝術大学在学中よりN響アカデミーにて研鑽を積む。学内において安宅賞、アカンサス音楽賞を受賞し首席卒業。第4回済州国際金管楽器コンクール(韓国)にてバストロンボーン部門第一位、及び全部門におけるグランプリ受賞。第23回日本管打楽器コンクールにてトロンボーン部門第一位。これまでにソリストとして東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団、藝大フィルハーモニアや全国の吹奏楽団と協演。また旧東京音楽学校奏楽堂、いわき市芸術文化交流館アリオス、スペースDo、JTアートホールアフィニスでリサイタルを行うなど、ソロ活動も精力的に行う。近年ではハンガリートロンボーンブートキャンプにも講師として招かれるなど、国際的にも活動。
黒金さんとはトランペットの川田さんにご紹介いただき、出会いました。
インタビューを行ったのは年末のサントリーホールでの公演の後、近くのカフェでお話を聞きました。
演奏会後にも関わらず自身の歩んできた人生について1時間ほどお話いただけました。
とても真面目な印象ですが、笑いも交えながら興味深い話をたくさん話していただけたので、ぜひ最後まで読んでください。
2018年12月12日 サントリーホール近くにて
まずは楽器を始めたきっかけを教えてください。
僕には六つ歳の離れた双子の姉がいるのですが、その姉達が小学校の吹奏楽部でサックスを吹いていたんです。それで大会などにもくっついて歩いていたので、自然と楽器をやりたいなと思っていました。元々、家にピアノがあったので自由に弾いたりしていて、音楽が身近にある環境でした。小学校で姉達がサックスを吹いているのを見て、僕も次第に吹奏楽器をやりたいなと思うようになりました。
そして、小学3年生の終わり頃に吹奏楽部の募集があったので即入部しました。マーチングも盛んにやっている部活だったのですが、ちょうど小学4年生の時に福島国体があったんです。それに向けて予算がいろんな学校に割り振けられて、マーチングバンドで盛り上げていこうという動きがあった時でした。座奏もマーチングもやって、とても活動的な時期でしたね。
小学生の頃からバストロンボーンを吹かれていたのですか?
その時はテナートロンボーンを吹いていました。一通り楽器を吹いてみたんですけど、金管楽器がいいなとなんとなく思っていたんです。楽器決めテストの時にトランペットとトロンボーンとユーフォニアムを吹き、先生に「何でもいいよ。」という風に言われたので、見た目がユニークなトロンボーンに決めました。バストロンボーンは小学校にはなかったので、F管付きのテナートロンボーンを吹いていましたね。
いわき市は吹奏楽の盛んな地域なんですが、中学生になって僕はいわき市立植田中学校に入学しました。僕が入学する前に吹奏楽部は全国大会に行ったりと、結構頑張ってる中学校だったので迷わず入部しましたね。僕が中学生の時は全国大会には行けなかったんですけど、それでも毎年東北大会には行っていました。
中学2年生に上がる前にバストロンボーン吹いていた先輩が引退したので、僕が吹くことになりました。誰がやるって言う話になった時に、周りの雰囲気もあったし、僕も嫌ではなかったので。嫌ではなかったというのは、1年生で入った時にトロンボーンパートの人数が多くて、細管のテナートロンボーンで3番パートを吹いていたからです。細管で低い音を頑張って練習してだんだん出るようにはなっていたのですが、それでも限度があったので早くバストロンボーンを吹きたいなと思うようにはなっていました。
その頃はどれくらい練習していましたか?
中学生にしては結構していた方なんじゃないかなと思います。夏休みとかは練習が朝9時から21時過ぎる時もあったし、普段でも18時から19時ぐらいまでは練習する部活だったので。でも、その時は専門的に進もうとは考えもしていなかったので、部活のみんなと一緒に普通に練習をしていたという感じでした。先生も熱心な方で、トロンボーンパートに一冊アーバンが置いてあるほどでした。中学生でアーバンなんてあまり今はさらわないだろうし、僕が教えている音大生でもやったことがないという人もいますけれども、そういうものもさらっていました。
僕がバストロンボーンにハマるきっかけというのが、中学2年生の時にコンクールの自由曲でローマの噴水を演奏したことです。この曲の低音のメロディーはオケのオーディションでも出るぐらい難しいんですけども、それに取り組んだのが大きかったのかなと思います。
高校も強豪校の磐城高校に進まれたのですよね?
高校も部活漬けの日々でした。ほとんど勉強なんてしていなくて(笑)、楽器一筋の生活でしたね。でも、最初の頃は専門家になろうとは思っていなかったです。そんなに甘い世界ではないと思っていましたし、周りでそういう進路を選ぶ人達も多くなかったので。学年で一人、二人は毎年音大に進む先輩はいたんですけれども、それくらいなので簡単に音楽の道を志してはいけないのだろうという風に思っていました。
いつ頃から音大に進もうと思ったのですか?
高校2年生に上がるくらいの時ですね。吹奏楽部の顧問の先生が音楽の先生でもあったんですけれども、1年生の音楽の授業の時に「音楽の道に進む気はあるのか?」みたいなことを聞かれたんです。ぼんやりとは考えていたんですけれども、例えば教育学部の音楽教育の方に進むだとか、何かしら音楽に関わっていきたいというような答えをしたと思うんです。それを先生が覚えていたらしく、2年生に上がる時にもう一度呼ばれて、「トロンボーンで音大を目指すという道もあるんだぞ」と仰っていただけたんです。
その先生は音大で作曲を勉強された方なんですよ。音楽家になることの大変さを知っている方なので、生徒が音大に行きたいと言うとだいたいは止めていたんです。そういう方が背中を押してくれたのでこれはいけるのかもしれないと思って、2年生の夏に洗足の夏期講習を受けに行きました。そこで僕のお師匠さんの秋山鴻市先生にお会いして、そこからレッスンを受け始めました。
藝大に進学しようと決めたのはいつ頃ですか?
初めて秋山先生に会った時に、洗足を受けて先生のところで勉強がしたいという話をしたんです。でも、先生からは「君は藝大を受けなさい。」と言われたんです。そんなに吹けるとは自分では思っていなかったですけれども、そこから藝大を目指して頑張ってみようと思いました。
そうしたらちょうど僕が入学する年に藝大の先生方が総代わりする時で、秋山先生が藝大に来ることになったんです。結果的に大学でも秋山先生に習えることになったので良かったです。
藝大に入るための準備はどのように進めましたか?
楽器の練習は部活の曲を吹くこともそうですが、個人練習の時間があれば秋山先生のところに持っていく課題のエチュードをさらったりしました。僕は3年生の時に学生指揮者もやっていて、練習場の鍵の管理を部長とか僕とでやっていたので、みんなを返した後に部室で1、2時間くらい練習したりもしました。
ピアノは子供の頃に習っていたので、ソルフェージュも聴音も比較的できるところからスタートはできたと思います。だからと言ってすごく得意なレベルでもなかったので、週に一回は高校の近くのピアノの先生の所に行ってレッスンを受けていました。なので遅くまで楽器の練習をして、家に帰ってから夜遅くまでピアノの練習をするという毎日でした。
藝大の試験の時のことは覚えていますか?
藝大近くにホテルニュー上野というホテルがあるんですけど、地下の食堂で昼間は練習できることを先輩のツテを使って情報を集めて知っていたので、試験の週間はそこに泊まっていました。藝大の入試は今でもそうなんですけれども、例えば2月25日に一次試験の日程を発表しますと言って、一次が2月26日から四日間あるとします。トロンボーンの試験がどこになるかは25日にならないと分からないシステムなので、地方から来る学生にとってはかなり大変なんです。
そういう感じだったので、仮に25日に日程発表だとすると24日ぐらいから東京入りして、試験期間の終わりまでホテルを取っておかなければいけないという感じでした。一次試験が終わったら地元に帰り、3月の頭に一次の合格発表があって、そこからさらに二次試験の日程が発表されます。それがまた自分の試験がいつになるか分からないので、一応また通しでホテルを取っておいて、終わったタイミングでキャンセルするという生活でした。三次の筆記まで入れると2週間近くかかるんですけど、大変な日々でしたね。
試験当日の話ですが、朝ホテルの地下で楽器をさらって、さらに試験直前まで上野公園の木の下でさらうんですよ。今はそうやっているか分からないですが。マルイの電光掲示板を見て、その日の気温が13℃だったというのは覚えています。3月にしては暖かいなと思いながら音出しをしていました。
藝大に入ってからの生活はどうでしたか?
音楽大学の独特な生活に慣れるのに必死という感じでした。毎日昼間から練習ができる環境というのが新鮮だったし嬉しかったですね。もちろん授業もあるんですけど、授業がない時にはトロンボーン部屋に戻って自分の練習をしていました。
今はどこの大学もOBはあまり入りづらい雰囲気があるんですけど、当時は卒業生の方がよくいらしてて、暇そうにしている学生を捕まえて「アンサンブルやるぞ!」と言ってくれてました。部屋にあるカルテットやトリオの楽譜を束で持って行って、順番にやっていくというような感じで、それで初見力とかアンサンブル力が鍛えられたと思います。
在学中にN響アカデミーに参加されたということですが、どのようなことをするのですか?
N響のリハーサルの見学などが許可されていて、団員のレッスンを受けることができたり、本番にも乗せていただけます。あと研究費として月々いくらかもらえます。
ただ、僕の場合は大学2年の夏からアカデミー生だったんですけど、N響のバストロンボーンの前任者の秋山先生が退団されるタイミングで、ちょうどオーディションがあって受けてみたんです。2年生だし受かるなんて思っていなかったですけど、そうしたら残してもらって。でもあまりにも若くて経験もないし、アカデミーという制度ができて間もない頃だったので、アカデミーに入れて様子を見てみるという感じになりました。だから他のアカデミー生よりも本番の数は多かったですね。
秋山さんは退団されたということですが、その頃は他にバストロンボーンの方はいたのですか?
実は最初は僕ともう一人アカデミー生として残った方がいたんです。その方も現在都内のオケで活躍されている方なんですけれども、二人でアカデミー生としてやっていて、そのうち僕一人になったという感じです。あとは吉川さんが2番3番吹きなので順番に回していました。
アカデミー生になった時から正団員になるということは決まっていたのですか?
それに近いものがあったんだと思います。大学2年生の夏から4年が終わる頃までアカデミーにいたのですが、終わる直前にもう一度正団員になるためのオーディションがありました。そこで票を頂いて、大学卒業した年の4月から翌年の4月まで1年間試用期間があり、その最後の時にまた投票があるんですよ。それで2009年から晴れて正団員になりました。
20歳の頃からN響で演奏されてきたということですが、その歳でプロのオーケストラに乗るのは大変ではなかったですか?
とても怖かったですよ。今は皆さん優しい方が増えたというか、怖い人たちが退団されていったなという感じがするんですけれども(笑)。よく後ろを振り向かれて睨まれたりしましたし。いろいろと学ばさせていただきましたね(笑)
でも、それこそよくこっちを振り向いていた方でも、たまにアドバイスをしてくれたりするんですよね。熱心に指導してくださったので、怖かったですけどとてもありがたかったですね。
その頃は大学に行きながら仕事もしていたということですが、かなり忙しかったのではないですか?
そうですね、忙しくさせてもらっていましたね。N響は本番の日は午前中にゲネプロをやって、6~7時間空いて夜に本番というスタイルが多いんですけれども、空き時間に大学に戻って授業を受けてからホールで本番という感じでやっていました。それこそ単位も危うくて、ギリギリなんとか出席日数を稼いで卒業しましたね。
最初は教職も取ろうと思っていたのですが、早々に無理そうだと諦めて、教職に関わる単位とかを全部卒業の単位の方にまわしてなんとかなりました。
学生の時とN響に入った後の違いというのはありますか?
授業に行かなくて済むようになったことですかね(笑)。なんとなくヌルっと移行していった感じがあるので、そんなに大きく変わった感じはしなかったんですけど。でもアカデミーの時よりも格段に出番数が増えたので、毎回次のコンサートのさらう曲がどんどん来て大変だったなと思います。
20代で入団されたということですが、他に若い団員の方はいましたか?
いなかったです(笑)。管楽器の中では今でも僕は下から2番目かな。一個下にフルートの中村淳二君が3年前くらいに入ったんですけれども、それまでは一番下でした。新入団員で入ってこられる方も僕より年上の方がまだ多いので。弦楽器であればそれこそ大学を卒業してすぐにN響に入ってくる人もいます。
オーケストラの雰囲気はどうですか?
みんな和気あいあいと仲良くやっています。でも、仕事に対する緊張感は薄れない良いバランスでやれてるんじゃないかと思います。お互いプロフェッショナルで尊敬し合っているところで成り立っているので、それが大きいのかなと思います。
10年以上N響で演奏してこられて、記憶に残っている演奏会はありますか?
さっきも話に出ましたけど(管理人と)、オーチャードホールでフェドセーエフが指揮した1812年のコンサートはすごく心に残っています。
エッシェンバッハとのブラームスの2番、3番も記憶に残っていますね。指揮はあまりよく分からないんですけど、そういうものを超えたオーラや愛を感じる演奏会だったなと思います。
あとブロムシュテットは毎年来ますけど、彼と一緒にやる演奏会はいつも本当に心に残ります。この間のブルックナーの9番と次の週のマーラーの巨人に乗っていたんですけど、どちらも素晴らしくて。特にブルックナーは神の存在を感じるような絶対的な音楽を体験できました。
彼はリハーサルは厳しいんですけれど、この人の棒についていけば間違いない、こう振られたらこういう音しか出ないよなという振り方をしてくださるので、そのまんま演奏すればいいという感じです。
あとは一度だけゲルギエフと悲愴を演奏したんですけれど、僕が正団員になって間もない頃のNHK音楽祭で爆発的なエネルギーに溢れた演奏会でした。忘れられないのが最後のピアニッシモで曲が終わった後、本当に息もできないくらいの静寂が1分くらい続いて、その無音の状態がすごく印象的でした。
トロンボーンセクションとしてこういうサウンドにしようという共通認識などはあるのですか?
特別何か話し合ったりということはあまりないのですが、その時その時で一番いいハーモニーを作ろうということは努力していますね。新しく古賀光さんが入ってきましたけど、これがN響のサウンドだから合わせなさいみたいなことを思っている人は誰もいないと思います。新しく入ってきたサウンドと良いところを見つけて、全体のサウンドを作っていこうと思っています。
N響のトロンボーンセクションは使っている楽器がみんなバラバラなんですよね。それも面白いなと思うんですけど、だからといって音が合わないというわけではないんですよ。それぞれの持っているサウンドは微妙にはもちろん違うんですけれども、目指したいサウンドとハーモニーというのは大きく変わらないので、使う楽器がバラバラでも影響はないかなと思っています。
黒金さんご自身としてはオケでこういうサウンドで吹きたいというものはありますか?
それもあまり固まらないようにとは思っています。その時その時で、それこそ一番に誰が座っているかということでちょっとやり方も変わってくる部分もあります。それはトロンボーン以外でも同じです。コントラバスの首席が誰とか、セカンドファゴットやコンマスに座っている方が誰とかも見ながらやりますし。同じ曲でも指揮者が違えば全然違う演奏になるので、色々アンテナを張ってその場で求められている空気というのは何なんだろうと読むようには心がけています。
でも、全てを人に合わせればいいという訳ではないとも思っています。難しいところですよね。
今日演奏したチャイコフスキーとかだと、バストロンボーンがバチッと決めないと周りが迷うみたいな所もあったりするので、周りの様子を見つつ低音セクションの核になるような音を出していければいいかなと思っています。もちろん音だけではなく音楽の動きとかも。
N響に入られてからはベルリンにも留学されていますよね?
N響の正団員になって3年が経った頃ですね。
なぜそのタイミングで行こうと思ったのですか?
ベルリンフィルのバストロンボーン奏者のシュテファン・シュルツさんが好きで、学生の時に初めてレッスンを受けたんです。その時からすごいなあと思っていて、留学するんだったらこの人のところだろうと思っていました。いつかは留学したいなとは思っていて、オケに入って3年ぐらい経てば許してくれるかなというところがあったので(笑)、相談してみたんです。
あと2009年の9月頃にトロンボーンのないプログラムが一ヵ月続いたんですよ。これはチャンスだと思ってベルリンに旅行に行き、シュルツのレッスンを受けさせてもらったりしたんです。ベルリン近くのライプツィヒに行ってみたりなど、ドイツを十日間くらい旅したんです。
その時にベルリンフィルを初めて生で聴いて、ものすごいオケだなと思ったりも。シュルツのところに習いに行きたいと思っていたし、ベルリンフィルも毎週聴ける環境ということで、やっぱりベルリンだなという感じで決めました。
1年間ベルリンに行かれてみてどのような生活でしたか?
午前中は語学学校に行って、午後はフィルハーモニーの練習室を借りて練習させてもらっていたので、演奏会がある時は夜に演奏会を聴くという毎日でした。
それは大学に入ったというわけではなく?
そうですね、プライベートのレッスンを受けに行っていました。ただ、ベルリン芸大でシュルツ先生が教えていたので、そこのレッスンの枠に入れてもらうという感じで大学に出入りはしていました。
海外の生活で不便などはありませんでしたか?
不便と言ったらもうたくさんありましたね。言葉もそうですし、日本みたいにいろんなものが便利に揃っているわけでもないので。外人局に行ってビザをもらう時も、朝早くからバーっと外人が並んでいて、結局夜までかかったり。
でも、僕はワーキングホリデーだったんですけど、日本でビザを取れたということをその後知って、この1日は何だったんだろうと思いました(笑)。
その1年はいろいろ旅行にも行けましたね。スイスとかイタリアとかチェコとか、それもすごく良い思い出です。
今後の抱負ややりたいことなどはありますか?
今の生活から大きく変わることはあまりなくて、オケマンとしてずっとやっていくと思うので、この道を極めていきたいという感じですね。より音楽的に成長していきたいなと。上手くなりたいということよりも、いろんな音楽家に会っていろんな音楽を吸収していきたいなと思っています。
誰かのリサイタルを聴きに行くということは、その人の人生を見に行くということではないかという話を最近することがあって、すごく自分の中でしっくりきた言葉だったんですよね。ステージの上というのは人間が出ると思うので、人生深めていきたいなという感じですね(笑)。
新しいことをやりたいなどの大きな夢は実はあまりなくて、今やっていることをもっと深めていきたいと思っています。
トロンボーン吹いてる方やプロを目指してる方にメッセージをお願いします。
これも難しいですよね(笑)。実際に大学で教える仕事をしていると、どこかでそれぞれの学生が決断をしなければいけないタイミングが来ると思うんです。楽器を続けるか、諦めるかという決断を。
強い信念を持って飛び込んでくる人がいないと、全体のレベルは上がっていかないと思います。僕も将来どうなるか分からないけども飛び込んできた中の一人ですが、ラッキーにも仕事をいただけています。
やっぱりいい音楽家になっていこうとするのにも、覚悟が必要だと思うんですよね。その覚悟や信念を持ってやりたいと思うのであれば、頑張ってくださいという感じですかね(笑)。
本当にこれは難しい話で。何か自分と関わることで価値観が変わったりして、音楽に真剣に取り組んでもらえれば嬉しいですね。プレイヤーとしては駄目だったとして別の生き方を選ぶにしても、音楽に真剣に取り組んだ期間が良い作用になればいいかなと思います。
全ての人に頑張ってくださいとか、夢を諦めなければ道が開けますみたいなことは言いたくないんですよね。
本日はありがとうございました。