仙台フィルハーモニー管弦楽団 

ホルン奏者

溝根 伸吾

Shingo MIZONE

 

東京都出身。東京藝術大学卒業及び同大学院修士課程修了。2015年から2016年にかけてミュンヘン音楽演劇大学に留学。J. ヒンターホルツァー氏に師事。ナチュラルホルンも学ぶ。2015年1月、星陵フィルハーモニー管弦楽団(日比谷高校OB・OGオーケストラ)とR. グリエール作曲《ホルン協奏曲変ロ長調Op. 91》を共演。同年6月には、仙台フィルハーモニー管弦楽団とR. シューマン作曲《四本のホルンのための小協奏曲Op. 86》をソリストの一人として共演。2018年2月、「新進演奏家育成プロジェクト オーケストラ・シリーズ」にて仙台フィルとY. ボウエン作曲《ホルン協奏曲Op. 150》を共演。
ホルンを故・伊藤泰世、守山光三、阿部雅人、西條貴人、日高剛、伴野涼介の各氏に師事。声楽を萩原潤氏に師事。
大学院在学中にオーディションに合格し、2013年3月より仙台フィルハーモニー管弦楽団団員。 尚美ミュージックカレッジ専門学校及び宮城学院女子大学非常勤講師。日本ホルン協会理事(宮城)。


・使用楽器&マウスピース

Alexander 103

JK SF3 18.5


ギャラリー



アンケート


Q1.出身は?
東京都目黒区です。
Q2.血液型は?
B型です。
Q3.星座は?
獅子座です。
Q4.好きな食べ物は?
焼き肉と蕎麦!
Q5.嫌いな食べ物は?
らっきょうとセロリ……
Q6.趣味は?
カフェ巡り♪
Q7.周りからなんて呼ばれてる?
ゾネ。
Q8.休日は何してる?
一日中寝たり、カフェに行ったり。
Q9.1ヶ月休みがあったら何をする?
ローマに行きたい!
Q10.よく行くスポットは?
カフェの他には、温泉にもたまに行きます。
Q11.好きな芸能人は?
小学二年生から、スピッツ一筋。
Q12.カラオケの18番は?
スピッツのチェリー。(オクターブ下)
Q13.宝くじで100万円当たりました。どうする?
ミニクーパーが欲しい。
Q14.楽器歴何年目?
ホルンは、20年目です。
Q15.オケ歴何年目?
オケも、20年目です。仙台フィルは、5年目!
Q16.好きな作曲家は?
ブラームスとチャイコフスキー!
Q17.苦手な作曲家は?その理由は?
考えてみると、あまりいないかも……
Q18.好きなクラシックの曲は?
チャイコフスキーの《胡桃割り人形》の"冬の松林にて"
Q19.本番前はどう過ごす?
直前は、なるべく静かに。

Q20.本番前はご飯を食べる?食べない?
軽く食べます。
Q21.本番が終わりました。飲む?飲まない?
飲みたい。
Q22.生まれ変わりました。次はどんな仕事をしてみたい?
役者!
Q23.自分の楽器以外で演奏してみたい楽器は?
バイオリン。
Q24.住んでみたい国は?
ブータン。
Q25.好きなオーケストラは?
バイエルン放送響とウィーンフィル、仙台フィル♪
Q26.憧れの音楽家は?
元東京都交響楽団ホルン奏者の、伊藤泰世先生。
Q27.演奏会当日、緊張する?しない?
します。
Q28.演奏会でのハプニングや失敗談はある?
ないということで(笑)
Q29.思い出の本番は?
たくさんあって書ききれません♪
Q30.好きな指揮者は?
今までご一緒した方では、ブロムシュテットさんが好きです。
Q31.指揮者の解釈が納得いきません。どうする?
ひとまずは、その通りやってみる。
Q32.指揮者が指揮を振り間違えました。どうする?
困る(笑)
Q33.本番中、客席に美人、またはイケメンを見つけてしまいました。どうする?
とりあえず、ウインク。(大嘘)
Q34.音楽家として気を付けてることは?
自分に嘘をつかない。
Q35.所属するオケはどんなオケ?
自分のやりたい音楽ができるオケ。
Q36.明日世界が終わります。どうする?
大切な人と共に。
Q37.音楽ファンに一言。
心の震える瞬間を共有しましょう(^^)



インタビュー


 

2017年6月15日 都内某所にて

  

 

まず最初に楽器を始めたきっかけを教えてください。

 

 ピアノは4歳ぐらいから始めていて、ホルンは小学校5年の時から。小学校にオーケストラがあって友達に「楽しそうだから行ってみよう」って誘われて何となく。最初はトランペットがやりたいと思ってたんだけど、やっぱり人気があるから埋まっていて空いていたのがホルンとトロンボーンとユーフォニアムだった。オケなんだけど、なぜかユーフォニアムもあって(笑)、2週間ぐらいかけてその3つの楽器を回って、最終的に何を勘違いしたのか(笑)、ホルンが吹きやすいと思ってホルンに決めた。ホルンの6年生の先輩が面白い人が多くて「楽しそうだな」というのもあって。

 

小学校のオーケストラには何人ぐらいいましたか?

 

 3学年で60数名いました。

 

どんな曲を演奏しましたか?

 

 6年生の時にコンクールに出て、ドリーヴ作曲のバレエ音楽「シルヴィア」のバッカスの行列を演奏した。TBSのコンクールで東日本大会で優秀賞取ったり、東京文化会館でも演奏させてもらったりとか。入った5年生の時はゆるゆるな感じで、朝練も一応毎日あったけどみんなで遊んでる感じだった。放課後練習も週に2回ぐらいしかなくて、土日も何もしない。
本番前だけちょっと練習するみたいな感じでやってたんだけど、6年生になった時に数年前までその学校でバリバリやってた先生が戻ってくる異例な人事があってそれからまた盛んになった。毎日放課後18時19時まで練習して、夏休みなんかは蒸し風呂のような体育館で9時から18時までやっていた。今思うと凄いけど、18時まで練習してさらにその後みんなで公園で遊んだりして凄まじい体力だったなって。友達とそうやってワイワイするのが楽しくて。

 

中学校では吹奏楽部に?

 

 そうです、でも通っていた中学校の吹奏楽部はわりと弱小で、物足りなくなってスポーツもしたいなと思ってバレーボール部と兼部していた。たまたま活動日もかぶっていなくて毎日どちらかの部活をやっていた。バレーボール部は人数があまり多くなかったから副部長とかもやってて。オーケストラは小学校のOBオケがあって月2回ぐらい練習に行って続けていました。

 

高校ではまたオーケストラに?

 

 高校受験の段階で学校を選ぶ基準が、オーケストラがある高校か吹奏楽の強い学校どっちかと決めていた。結局都立の日比谷高校っていうオーケストラがある高校に行ったんだけど、そうでなかったら東海大附属高輪台高校に入学していた。

 

その頃からプロになりたいと思ってましたか?

 

 その時は全然考えてなかったです。とりあえず楽器を頑張りたいと思って。

 

高校のオーケストラではどんな活動をしましたか?

 

 わりと歴史のあるオーケストラでOBオケなんかもかなり人数がいたりして。特色としては指揮者と各セクションのトレーナーを全部プロで固めているというのが都立の高校オーケストラとは違うところで、当時金管のトレーナーはつの笛集団の高野哲夫さんがいらしてくださっていました。今は日本フィルのトランペットの星野さんが金管のトレーナーとして来てくれていて、僕もお手伝いでたまにレッスンに行ったりしている。明日も行くんだけど。打楽器も日本フィルの方だし、弦楽器は各楽器に先生がいて指揮者ももちろんプロの方を呼んで。

 

練習は毎日していましたか?

 

 進学校だったのもあって、オーケストラ部は土日と木曜は基本的に活動なしだったから、月火水金は練習していたかな。部活のない日でも自主的に練習はしていたけれども。

 

そこではどんな曲を演奏しましたか?

 

 毎年秋に定期演奏会があってそこで大曲をやるんだけど、1年生の時はブラームスの交響曲第2番をやった。4番ホルンを吹いたんだけど、それが初シンフォニーだった。前プロはくるみ割り人形の組曲で。進学校ということもあって2年生の秋で引退だったんだけど、その時はチャイコフスキーの4番、フィンランディア、グリーグのペールギュントの第2組曲をやってチャイコフスキーと北欧のプログラムだった。指揮者の先生がプロの方なので、高校生でもちゃんとしたプログラムができて良かったなって思う。

 

部員は何人くらいいましたか?

 

 僕の代で36人いたから2学年合わせて70人ぐらい。高校2年生の時は部長をやっていた。

 

楽器経験者は多かったですか?

 

 管楽器はわりと経験者が多かったけど弦楽器はほとんど初心者だった。大変なのは1年生の春に初心者として入って、半年でブラームスやチャイコフスキーの交響曲を弾かなければいけなかった。でも意外とどうにかなっていたかな。進学校だけあって賢い子が多くてわりと要領が良かったりするし、ピアノをやってた子もいて絶対音感を持ってる人が結構いたりとか。

 

藝大に入ろうと思ったのはその頃からですか?

 

 高校1年生の夏くらいに腕試しで日本クラシック音楽コンクールの高校生部門に出たんだけど、思ってたより結果がイマイチでそれがすごく悔しかった。自分はちょっと上手いと思っていたから。こんなはずじゃなかったと思って、そこから上の世界で突き詰めてやりたいなと思ったのがきっかけ。

 

入試の準備はいつ頃から始めましたか?

 

 ホルンの先生についていたのは中学2年生の時からで、ピアノの先生に紹介していただいたのがもうお亡くなりになられた元都響の伊藤泰世先生という本当に素晴らしい先生だった。今考えると中学2年生で日本ホルン協会の初代会長、日本では「ボス」と呼ばれて慕われている方にいきなり習ったのは恐れ多いけどすごくラッキーなことだったなと思っています。高校1年生の終わりころかな、「音大に行きたいです」っていう話をしたら、「じゃあそういうレッスンをしようか」ということになって。ソルフェージュとかはピアノの先生にやってもらうことにした。高3の時点で伊藤先生に紹介していただけて、東京藝大の守山先生のレッスンを受けるようになった。

 

そして1浪して藝大に?

 

 最初の年は藝大1本で受けたんだけどだめで、2年目に受かった。それもいろいろあって。両親に音大に行きたいって言い始めたのが高校2年生の春ぐらいで、母親は音大出身ということもあって「やりたいことやればいいんじゃない」って言ってくれた。だけど父親は猛反対で。僕が通っていた高校は現役でクラスから1人は東大に行くような学校だったから、父親は期待してたところもあって。音大に行っても潰しはきかないし、厳しいのも分かってるから絶対だめだって。1年間ぐらいほとんど喧嘩状態だったけどずっと平行線で、家の雰囲気も悪くなっていって。次話してどうしようもなかったら家出しようと思ってたタイミングで話したら、ちょっと折れてくれた。条件としては現役の時は藝大1本だったらいい、もし落ちたら2年目は藝大も受けてもいいけど、一般の私立の大学も受けろという鬼のような条件で(笑)。でも今まで平行線だったから何でもいいから受けさせてくれるならやるって言って藝大を受けた。1年目は残念ながら1次試験で落ちちゃって、それもショックではあったんだけど、不思議なことに切り替えが早かった。

 落ちたその日に予備校を探そうと思って、中学の時にお世話になっていた塾の先生に「今から会えませんか?」と電話して
お勧めの予備校を教えてもらった。教えてもらってからすぐ3月から春季講習とか、体験入学とか行き始めて結局Z会に行き始めた。

 

ホルンも吹きつつ勉強もしなければいけなかったのですね。

 

 キツかったよ。今考えるとホルンの練習に時間が割けないから効率よく練習しなければいけなかったので、それはそれで良かったかなと。

 

藝大に入ってからはどんな生活でしたか?

 

 浪人中にいろいろあったんだけど。秋に伊藤先生がご病気で亡くなられて、守山先生もお忙しくてなかなかレッスンに行けない時期が10月から11月ぐらいにあった。守山先生に電話でお話することがあって、「誰かのレッスン受けているのか」って聞かれたから「受けてません」って答えた。勝手に行けないしね。そうしたら当時、新日本フィルにいらした阿部雅人先生を紹介してくださって、11月頃に阿部先生のところにレッスンに行ったら、「今の吹き方じゃ藝大に受からないからアンブシュアを変えろ」と言われた。「どうせだめなら変えてだめな方がいいだろう」って言われて、「確かに」と妙に納得してアンブシュアを変えはじめたんだけど、そこからほとんど音が出なくなった。チューニングのBの音しか出ない状態が受験の3ヶ月くらい前だった。週1以上のペースで阿部先生に見てもらっててアンブシュアをああでもないこうでもないって試行錯誤したんだけど、先生もアンブシュアを変えた経験があったそうで、僕が抱えていた問題と阿部先生がかつて抱えていた問題が結構近くて、それが上手くハマって3ヶ月でぐっと伸びた。だいたい上手くなる時って上がって下がってを繰り返すと思うんだけど、最初の波が来た時にちょうど藝大入試があったのが良かった。

 

 入試が終わったら気が抜けたのもあるけどちょっと調子が下がっちゃって。大学に入ってからは入試に一回落ちたこともあって、自分に自信がない状態だった。周りもみんなすごく上手いし。沢山練習しなきゃと思ったりとか、授業も忙しいし。先輩の代わりにアンサンブルのレッスンを受けに行ったり、学園祭も毎年9月にあるのでそのオケとかも忙しかったりして。なんか調子悪いというかハイトーンが出ずらくなったりしたんだけど、その時はあまり気にしてはいなかった。1年生の9月ぐらいに阿部先生のところに久しぶりにレッスンに行ったんだけど、「吹き方が高校生の時に戻ってるね」って言われて、その瞬間にまた全然音が出なくなっちゃって。

 

 理由としては入試の時は3ヶ月でどうにかなっちゃったんだけど、やっぱり突貫工事というか。大学に入って過度な練習とか、無理やり吹いたりして知らず知らず元の吹き方に戻っていたらしくて、そこからまた阿部先生の元に通い始めて、まともに吹けるようになるまで2年くらいかかった。何百回アンブシュアを変えたかなって思うほど、当てる位置とか角度とかいろんなことを試したりしてなかなか辛い大学生活を送ってました(笑)

 

その期間は試験などはどうされていたのですか?

 

 開き直って、吹けないのだけれども、もう無理矢理吹いていた。後々言われたんだけどトロンボーンの先生に「溝根は入る大学を間違ったんじゃないかなと思ってた」って(笑)「今は上手くなってるからいいけどね」って4年生くらいの時に言われて、「そう思われて当然」と自分で思うくらい周りと比べて全然吹けなかった。

 

それから大学院にも進まれたのですよね?

 

 それも父親と一悶着あって。藝大に受かったのはすごく喜んでくれたんだけど、卒業後どうするんだっていう話になった。アンブシュアを直したりとかもあってオケに入ったりするのは少し時間がかかるなと思ったので、色々な要素を考えて大学院に進むと決めた。それも父親を説得しなければいけなかったから、自分でA4用紙で4、5枚くらいの資料を作ってプレゼンをした。大学院を卒業して1年フリーでやってみてだめだったら楽器やめますという約束で。学費も大学院の時は自分で払ってた。

 

学費はアルバイトで稼いでいたのですか?

 

 フランス料理屋で(笑)藝大の近くにあった個人経営のお店で、家庭的な雰囲気の人気のフランス料理屋だった。ワインのソムリエさんもいるし、そこは歴代藝大生がバイトしていた。あとは荒川区の文化施設で事務のバイトもしてた。今思うと大学と大学院の6年間はオーバーワークの連続だったと思う。あれはもう麻痺だね。手帳が黒いと嬉しいみたいな(笑)学生でも吹けてくると仕事もらったりとか先輩に頼まれたりとかすると自分ちゃんとやってる感が出ちゃったりとか。でもそれはナンセンスで、もう少し自分の練習時間とか休む時間を取っておけばもう少し上手くなっていったんじゃないかと今更ながら思う。まあそれで得たものもあるけど。

 

そして大学院2年生の時に仙台フィルに入られたのですよね?

 

 そうです。

 

それまでに他のオーディションを受けましたか?

 

 仙台フィルは10個目ぐらいだった。最初に受けたのは名古屋フィル、その後は日本センチュリーだったりとか、東京交響楽団も受けたしなんだかんだで10回弱ぐらいは受けたかな。

 

現在は下吹きですが、オーディションを受ける際は上吹き下吹きというのは決めていましたか?

 

 阿部先生の教えとしては、それは自分で決める事ではなくて周りが決めることだから両方やっておけと。2番ホルンだと1番と同じ音をユニゾンで吹かなければいけない時があって、1番に2番はつけないといけないから1番よりうまくハイトーンを吹けなければいけないし、合わせられる余裕をもって吹けなければいけない。阿部先生も日本を代表する下吹きだけど、ハイトーンに関してはかなり教わったね。まずハイトーンを吹けるアンブシュアで吹け、ハイFまで楽に吹ける口で吹けと。そういうこともあってなるべく自分では決めずに両方ともオーディションは受けた。

 

 性格的に支える感じの方が合ってるからやっぱり下吹きかなって思ってたけど。周りに上手い人も多かったし、そういう人たちはソロも上手だから上吹きになってたりするし。両方やってるつもりだったけど、自然と下吹きのオーディションを受ける回数が割合としては増えてきて、首席の募集があっても「ちょっと受けられないな」ってなってて。オーディションの日程がかぶったりすると下で受けようかなという感じになっていた。

 

仙台フィルのオーディションを受けた時のことは覚えてますか?

 

 よく覚えてる。2012年の6月にオーディションがあって、その1ヶ月前の5月に毎年仙台駅でやっているコンサートがあるんだけどその時にエキストラで呼んでもらった。仙台フィルの日程が水、木がリハーサルで金、土、日が本番だったんだけど、僕の出番は土日だけでいいって言われていて。東京フィルのエキストラの仕事もその週に入っていたんだけど、そのリハーサルが火曜日、本番が金曜日ということで、「引き受けられないかな」と思ったのだけれど、依頼をくれた仙台フィルの人に聞いたら「大丈夫だよ」と言われて。運命を感じるスケジュールだった。阿部先生にもオーディションの1ヶ月前に呼ばれるなんてもしかしたらめぼしい人の中に入ってる可能性があるから、オーディションのつもりで行って来いって言われたんだけど、後々仙台フィルの先輩に聞いたらそんなつもりはなかったらしい(笑)

 

 さらにその前の話で、その年の1月にN響のアカデミーのオーディションがあってホルンの下吹きに応募したんだけどその時は割とうまくいったのね。前年の12月から体質改善とか考え方を変えたりとかすごく大きな変化があった。とある本に出会ったんだけど、それがすごく自分にしっくりきて、そこからガラッと変わった瞬間があってその1ヶ月後のN響アカデミーのオーディションが結構うまくいった。結局落ちたんだけど二次審査まで進んだし、講評を伺ってみるといい線いっていたような感じで。思いついたことをなんでも書くノートがあるんだけど、その時のノートを見返すと「あと2回でオーケストラに入れる気がする」みたいなことを書いていた。実際3月に大阪でオーディションがあって、それは上手くいかなくてそのあとの仙台フィルで受かったから実際2回で入ったんだよ。ピラティスを始めたのもその時期で、すごく波が来ていたタイミングで仙台フィルのオーディションがあった。

 

 その時は33人受けに来てて、既にプロの楽団で活躍されている方も受けにいらしていた。2次試験で5人残ったんだけど、2次は1人でステージに立ってオーケストラスタディを20分ぐらい吹くというもの。自分としてはちゃんと準備もしてたし、ピタッとハマって上手くいったんだよね。僕は4番目っていういい感じの順番で、「やりきった、これで落ちても悔いはない」っていう感じだった。

 

 終わった後に控え室で事務局の人から発表があって「二次審査通過者は一人です、溝根です」と。でも、正直受かると思ってなかったから、頭真っ白になっちゃって。

 

すぐに結果が分かるんですね。

 

 その場ですぐ集計するからね。1次試験はホルンパートと常任指揮者など10人弱ぐらいが審査してるんだけど、2次試験はオーケストラの団員全員で審査をする。だから舞台には1人だけど客席にぶわーっと人がいるからもう極限状態の中で演奏しなくてはいけない。その直前のレッスンで先生から「お前そんな演奏じゃ仕事にならないぞ」って言われていて、「これ受かったけど仕事にならないな」みたいな(笑)試用期間で落ちるんじゃないかなとか思ってて嬉しいって気持ちよりどうしよう、大変な事が起きたみたいな。

 

 そのあと試用期間で3次試験があって3ヶ月間オーケストラと一緒に演奏するんだけど、その日程を決めるために結果発表後、ホルンセクションの人たちが待ってる部屋に案内されたのね。その時パニックになっていて思い切りドアに体をぶつけてしまって、ホルンの人達にすごく笑われて(笑)その後すぐに先生とか家族とかに「受かりました」と連絡したのをよく覚えている。

 

そして試用期間は3ヶ月ほど?

 

 9月から11月までだったかな?夏にイギリスで大学の演奏旅行とかあったので、それを待ってもらってスタートが遅くなったんだけど。
 
最初の頃はどうでしたか?

 

 すごく不安があったけどエキストラの仕事はやっていたから、オケの仕事は慣れている状態だった。受かった時はどうしようと思ったけど、それが6月で試用期間が9月からだったから準備する時間はあったし曲目も分かっていたので、そのためにレッスンで曲を見ていただいたりして9月の段階では結構落ち着いていたかな。そんなに混乱はなく自分のやるべき事をやろうとある意味開き直ってるところもあって、結果的にそれが良かったと思う。

 

試用期間では周りとコミュニケーションを取れるかということも見られる?

 

 そういうのも見る期間だからね。ありがたかったのは藝大の先輩で歳の近い齋藤さんと大野さんがホルンにいたのでよく面倒みてくれて。試用期間中とかも日帰りで3人で温泉に行ったりとか。びっくりしたのがリハーサルが早く終わった時にいきなり「温泉行く?」って言われて。東京に住んでたから温泉に行くって言ったら泊まりがけで行くと思ってて 、「今からですか?着替えとかホテルにあるのですが」みたいな感じで答えたら、「いやいや日帰りだよ」って言われて。その時は車で1時間ぐらいの所の温泉に行って、ひとっ風呂浴びて帰ってくるみたいな。 そういうこともできて仙台はすごく良いなと思ったね。

 

試用期間が終わってからは何か発表みたいのはあるのですか?

 

 それもすごくよく覚えてる。試用期間の最終日に団員の投票があるんだけど、後日結果は電話で連絡しますっていう感じで。その日は一橋大学の講堂で演奏会の仕事があって、そこに行く途中に神田駅で事務局の人から連絡があった。「溝根さん、合格です!仙台フィルの仲間入りです!」って言われて「 ありがとうございます!」ってウルウルしちゃった。

 

入団はいつからでしたか?

 

 翌年2013年の3月です。大学院の試験とか論文とかがあったから待ってくれることになって。僕が入団した3月に仙台フィルのロシア公演があって、震災で支援してくれたお礼にサンクトペテルブルクとモスクワで演奏したのね。その関係もありオーケストラ的には3月の段階で入っててくれた方が事務的な処理とかしやすいからその方が嬉しいって言われて、
大学院の試験も2月に終わったから3月に入ることにした。住むところも試用期間後に先輩達に手伝ってもらって決めていた。

 

活動する上で東京と仙台では何か違いはありましたか?

 

 ずっと実家で暮らしていたので、一人暮らしが初めてだったから家事とかもあんまりできないしまず生活するのも大変だった 。仙台に行ったばかりの時はオーケストラの人はもちろん知ってるけど、ほとんどゆかりのない土地だったから他に知り合いもいないし休日にやることがなかった。入団二ヶ月経ったくらいに急に1週間ぐらい降り番で休みになって、休みの最初の2、3日くらいは自分の練習ができると思って集中して練習したんだけど、4日目くらいから気分が鬱々としてきて、「そういえばここ数日誰とも話していない気がする」って思ってズーンってなっちゃって(笑)そこでやっと分かったんだけど、誰とも話さないのは自分の場合3日が限度だって。自分は一人でいるのが好きだと思ってたけど、それはずっと実家にいたからで(笑)。ということもあったりして休みが続く時はなるべく実家に帰るようにして、東京で何かするという風に調整するように気をつけていたかな。精神的な問題だね。精神衛生上、仙台で何もしないで練習だけしてる生活は非常に危ない!(笑)

 

入団は2013年という事ですが、2011年にあった震災の時のことは聞きましたか?

 

 入ってから壮絶な話を色々聞いた。去年の夏にNHKで放送された仙台フィルのドキュメンタリーも観て感動した。仙台フィルが震災の2週間後ぐらいから復興コンサートを始めていて、今では600回ぐらい継続して続けているんだけど、震災を乗り越えたという特別な何かが仙台フィルにはあるということが 後から入った僕にも分かるような感じがあって。

 

 すごく印象的な話としては復興コンサートは室内楽単位では行っていたけど、やっぱりオーケストラとしての演奏は2、3ヶ月くらいはできなかった。でも、その後オーケストラアンサンブル金沢さんが仙台フィルを呼んでくれて、 合同演奏しようということで井上道義さんの指揮で新世界を一緒に演奏した。団員としてはそんな状況で練習もろくにできる状況じゃないし、そもそも演奏しても良いのか?という状況だったらしいのね。でも金沢の人達はすごく喜んでくれて、「演奏してもいいんだ」と舞台上で団員がみんな泣いてたっていう話を聞いて すごく感動しちゃって。その2年後に入った僕でもすごく特別なものがあることを本番の中でも感じる事があるし、昔から言われていたらしいけど仙台フィルはすごくアットホームなオーケストラだと思う。

 

仙台フィルに入って思い出の公演などはありますか?

 

 ロシア公演が入った直後にあったこともあり、ロシアのモスクワのお客さんとかすごく暖かく迎えてくれてすごく感動したね。

 

 あと印象に残っているのは指揮者の山田和樹さんと仙台フィルはすごく相性が良いみたい。上手い下手とかそういう問題ではなくてすごく感動的な演奏になることが多い。演奏しててもそうだしお客さんに感想を聞いても。僕が入団した年に山田さんの指揮でラフマニノフの交響曲第2番をやる機会があったのね。  CDにもなってるんだけど、演奏し終わった時のお客さんの熱狂ぶりとかが奇跡だなって思う瞬間があって。仙台フィルに入って思うのはやっぱりお客さんとの距離が近くて、ホールが小さいっていう物理的なのもあると思うけど反応がよく分かるし、凄く応援してくれているのが分かる。演奏している時はいっぱいいっぱいだけど、終わって拍手を受ける時にすごく感動することは何度もあったね。

 

最近、仙台フィルのツイッターが盛り上がっていますが。

 

 仙台フィル公式は日本一のプロオケアカウントではないでしょうか?(笑)

 

団員と事務局の人で話し合ったりするんですか?

 

 事務局の”中の人”が「溝根さん、今度あれやりませんか?」みたいな感じで、企画が水面下で行われているよ(笑)

 

動画とかも撮られてますよね?

 

 僕が企画した動画も今3本くらいあって、中の人が映像とか編集できる人だからこれやりたいんだけどって持ってくと「いいですね、やりましょう」っていう感じで 。

 

仙台フィルの中でそういう役割はあるのですか ?

 

 ないです(笑) 僕も動画を作るけど別にお金をもらうわけでもないし、それでお客さんが一人でも増えればいいなぁっていう気持ちで楽しくてやってます。それは団員にも聞かれたことがあって、三本目の動画を作っている時にクラリネットのポーランド人のダヴィッドに「溝根くんはそういうポジションがあるの?」って聞かれて「ないよ」って答えたら「素晴らしいね、ありがとう!」って(笑)ちょうど昨日ツイートしたやつが600リツイートを超えてて、そんなこと初めてだったからびっくりしたんだけど 。

 

仙台フィルに入団されてからドイツに留学もされたのですよね?

 

 一昨年の10月から去年の3月までミュンヘンに行ってきた。きっかけとしては大学生の時から留学する先輩も多かったし、大学で習ってた守山光三先生がドイツで長くやってこられた方なので、ホルン科の合宿で 先生と二人でお風呂に入っていたときに「西洋音楽をやるなら留学しないとね」ということをボソッと 仰っててそれがずっと頭の中に残っていた。オーケストラに入る前に留学するのはちょっとリスクが高いと言うか不安だと思って、オケに入ってから行きたいなと思っていたら幸いにもそれが実行できる状況になったので パートの人の了解も得られたし「行ってきます」って言って。

 

 先生を探してた期間があってロンドン響の人だったりとかゲヴァントハウスの人が演奏旅行で来てた時にコンサートを聞きに行って、どうにかツテを利用して連絡先をゲットしてレッスンしてもらったりとか。フィンランドのエサ・タパニ先生のレッスンとかも彼が日本に来た時に受けたりしてていろんな良い先生がいるなと思ってたんだけど、3年前ぐらいの9月にミュンヘン国際音楽コンクールの木管五重奏部門を受けに行くことがあった。 さっき話したクラリネットのダヴィッドが誘ってくれて、仙台フィルメンバー3人プラスαで受けたら最初のテープ審査は通ったのね。予選でダメだったんだけど、コンクール後に自由行動の時間が数日あって、たまたまミュンヘンに留学中の韓国人のホルンの友人に、「僕の先生の講習会があるから良かったら一緒に行かない?」って言われて、連れて行ってもらって出会ったのがヒンターホルツァー先生だった。

 

 一回レッスンを受けてすぐに「この人に習いたい!」って即決して、講習会の最終日に「あなたに習いたのいですがどうしたらいいですか?」と聞いたら、 「マスター(大学院)を受けるのが良いんじゃないか」って言われたのでそこから準備を始めた。


 留学は前々からしたかったからお金は貯めていた。その後マスターの試験を受けに行ったんだけど落ちちゃって。ヒンターホルツァー先生は日本では無名に近いけれど、ヨーロッパでは有名になりつつあって世界中の生徒がそのクラスを受けに来ていたのね。そのマスターの試験は熾烈な戦いで2人ぐらいしか入れないからダメだったんだけど、後で講評を聞いたら悪くはなかったみたいな感じだったから惜しかったのかなと思いつつ、それでもどうしても習いたかったから何か方法はないかと探していた。

 

 そうしたら東京交響楽団のチェロの川井真由美さんが、僕が試験を受けに行った時に1年間文化庁の派遣で留学されてて、偶然演奏会でお会いすることがあった。 ゲストスチューデントと言い方をするんだけど、それで留学してることが分かって川井さんから詳しく聞いた。でもヒンターホルツァー先生にそのことについて聞いたら、「そんな制度ないよ」って言われて(笑)。結局川井さんの先生に確認してくれたらあるということが分かったらしいのだけど(笑)、ヒンターホルツァー先生はミュンヘン音大に来てからまだそんなに年数が経っていなかったから、そういう仕組みみたいのも分からないところもあって。

 

 そしてヒンターホルツァー先生の許可をもらって留学することにした。マスターに受かってたら1年間行こうかなと思ったけど、その他もろもろ金銭的なこともあったから期間は半年間と決めた。「大学の学生を見なきゃいけないからがっつり時間を取れる保証はないけれど、それでもいいなら」という条件で行ったけど、それでも2週間に1回ぐらいのペースで見てもらえた。でも本当に学生優先だからだいたい僕に連絡来るのが前日か当日くらい。朝8時くらいに「今日10時の枠空いたけど、来る?」ってメッセージが来て「行きます」みたいな感じで(笑)

 

 そして、僕が一番好きなオーケストラがバイエルン放送交響楽団で、一番習いたい先生と一番好きなオーケストラがたまたま同じ街だったのは良かった。

 

住む場所は自分で決められたのですか?

 

 それも大変だった。ミュンヘンはそもそもドイツで家が見つかりにくいと有名だった。どうにか向こうにいるファゴットの同級生に協力してもらって見つけてもらったんだけど、最初に見つけてもらったところがすごく山奥で、しかも駅から徒歩40分かかるところだった。ミュンヘンの中央駅から家の近くの駅まで行くのに電車で40分くらいかかるんだけど、その家で自転車が借りられるらしいということでそれだったら駅まで15分くらいで行けると知り、通学時間は合わせたら1時間ぐらいで行けるかなと思ってた。

 

 東京で考えたら藝大に行くのも1時間ちょっとかかってたし、いけるんじゃないかなと思ってそこに決めたんだけど、東京の1時間とミュンヘンの1時間では距離がずいぶん違って、ミュンヘンの方がかなり遠かったからこれは通えないと思った(笑)。結局限界だなと思って1ヶ月でその家を出たんだけど、半年間の間に2回も引っ越しするっていう。家に関してはかなり大変だったね。

 

 住民票がないとビザも取れないし、ビザがないと3ヶ月しかいられないから。しかも、ビザを取るのもかなり大変で。向こうで知り合ったドイツ人のおじさんとかに協力してもらったんだけど。ドイツにはタンデムって言うのがあって二人乗りの自転車の意味なんだけど、僕はドイツ語を習いたい、そのおじさんのヘルムートさんは日本が好きで日本語を習いたいということで、タンデムという形でお互いの言語を教えたりしていた。そのヘルムートさんがめちゃくちゃ良い人で、ビザに関して役所に電話してくれたりしてどうにかなった。

 

 話は逸れるんだけど、1回楽器を無くしちゃったことがあって。メインの楽器ではなかったんだけど、ヒンターホルツァー先生からナチュラルホルンを買った時にバロックホルンも付けてくれたのね。それをしばらく学校に置きっぱなしにしてて、いざ持って帰る時に自分のホルンとナチュラルホルンとバロックホルンを持って家まで行かなくてはいけなくなった。その時たまたまオペラを聴きに行って疲れていたのもあったし、電車がすごく遅延してて、どの電車に乗れば良いかということにすごく神経を使ってて、乗り換えるタイミングで普段持ち慣れてないバロックホルンを電車に置き忘れたの。

 

 無くしたのに気づいたのは翌朝起きてからだった。電車まで持っていたのは覚えていたから、タンデムのヘルムートさんに連絡したら「伸吾落ち着け」って言われて(笑)ひとまず駅で会うことになって駅員さんのところや街の落し物係みたいな所にも行って事情を話して待つことになった。そしたら1週間後ぐらいに「見つかった」と連絡があって「ドイツ人優しいな」と思ったね(笑)普通海外なら戻ってこないよね。

 

海外留学も経て、今後の目標ややりたいことはありますか?

 

 今30歳を目前に控えていて、受けられるコンクールとかもどんどん減ってきている。 最終的には僕は良きホルンの先生になりたいという今のところの目標があるからそこに向けていきたいんだけど、そのためには若いうちにできることをひたすら出来る限り全部やっておきたいと思っている。

 

最後にホルンを吹いている学生などにメッセージがあればお願いします。

 

 僕も若手のつもりだから偉そうなこと言うのもあれなんだけど、自分がよく考えることとしては、結局のところ、どういう人生を生きたいのかってそこに尽きるのかなと思う。音楽家になりたいとかプロホルン奏者になりたいとか言うことがあるけど、なぜそう思ってるかって言うのがおそらく重要で、それが一番の原動力だと思うしそこに目を向けつつやるのが一番良いんじゃないのかなと最近は思っています。

 

本日はありがとうございました。