2018年6月2日 新宿にて
楽器を始めたきっかけを教えてください。
ホルンは中学1年で吹奏楽部に入った時に始めました。小さい頃に父親の仕事の関係でイギリスのケンブリッジに2年間住んでいたのですが、現地の幼稚園が歌うことをすごく取り入れていて、その頃から音楽が好きでした。帰国してからは横浜でピアノと合唱をやっていました。
小学生の時はピアノを習いつつ、野球にも熱中していたんです。少年野球のチームメイトの大野くんのお姉さんが、中学校で吹奏楽部に入ったと聞きました。大野君が野球部もいいけど吹奏楽にも興味があるから、「中学校に入ったら吹奏楽部に入ろうかな」って練習の時に言っていたんですよ。大野くんが行くんだったら僕も行ってみようかなと言って、一緒に吹奏楽部の仮入部に行ったんです。
そうしたらそのまま入部する流れになって、大野君はチューバをやることになりました。僕は仮入部の時に最初に割り当てられたのがホルンで、パートの雰囲気がすごく良かったんです。先輩達がすごく優しかったので、この人達と一緒だったら楽しいだろうなって思ってホルンに決めました。楽器に魅せられたと言うか、パートの雰囲気がいいと思ってホルンを始めたのがきっかけです。
コンクールなどには出られていましたか?
僕が入った年からA編成に出始めました。顧問の先生が女性だったんですけど、めちゃくちゃ厳しくて何度も辞めようと思いました。コンクールメンバーに入ったのはいいけど、音は出ないし、ほぼ吹き真似でいつつかまるか怯えていました。その顧問は生活指導の先生で音楽の先生でもあったのですが、実は愛情のある先生で、その愛情が分かるのに時間がかかりました。でもそれが分かってからは、すごく先生のことが好きになったんです。
1年生の時、県大会に出られたのですが最下位でした。それから猛練習して2年生、3年生の時に東関東大会に行けました。その時は県のベスト4に入れたんじゃないかな?そういう意味では名門とかではなかったですが、急激に伸びた3年間を過ごすことができ充実していました。
最初は本気で辞めようと思ったんだけど(笑)
その頃はホルンの先生に習っていましたか?
中1の時はほとんど独学で、教えに来てくれる先生も木管の方が多かったので、どういう練習をしていいかも分からず。楽器はFシングルでマウスピースも楽器と合う物ではなくて学校の備品でやっていたので、すごく難しいセッティングで吹いていたと思います。
2年生になったら、引退した先輩の楽器を使えたのでもう少し吹けるようにはなったんですけど、1年生の時よりも2年生の時の方がすごく怒られて、それで神経性胃腸炎になってしまいました(笑)
大会が終わった時に一つはこれ以上怒られたくないのと、なぜか怒られたけど楽器のことが好きになっていることに気づいて、もっと上手くなりたいと猛烈に思った時期があったんです。習っていたピアノの先生に相談したら、ホルンの先生を紹介していただけました。
相模原市に音楽家連盟というのがあって、そのつながりで東フィルの山内先生にレッスンして頂いたんです。それが中2の秋頃で、中学生の間に4、5回ぐらい継続してレッスンを受けました。
そこで本物の音を間近で聴けたことは絶対的にその後を決めたと思うし、その後半年間で自分でもびっくりするくらい上達したんです。
顧問の先生に一番怒られていた人が一番怒られなくなった(笑)3年生になったら先生とも信頼関係を築けるようになりましたね。
高校も吹奏楽の強豪校に行かれたのですよね?
自分の打ち込めることを探している中で、吹奏楽とホルンだなと思っていくつか高校に見学に行きました。その中で地元ということもあり、一番近くにあった東海大相模高校に決めました。
東関東大会常連校ですよね?
僕が在籍した時を含めて何年もずっと連続で金賞を取っていて、全国まであと一歩という学校でした。東関東は柏、習志野、常総という御三家がいるからどうしてもダメ金止まりでしたけど。でもそういうことは自分の中では気にしていなくて、見学に行ったら練習の内容とかすごくいいなと思ったんですよね。
高校に入ってからの生活はどうでしたか?
人数が多くてABCの三つの編成に分けられていたんですけど、入れないだろうって思っていたA編成に1年生の時になんとか入れたんです。最初は当然足を引っ張りまくり、マズいなと思ったんですけど。先輩方がすごく面倒を見てくださって、色んな出会いもあり夏くらいに一気に上手くなった瞬間があって楽しくなったんです。
2年生になる頃には野心が芽生えてきて、 パートで一番上手くなるのが目標になっていて、気づいたら歴代で1番上手くなりたいとだんだん自分の中で目標が変わっていきました。
2年生の夏にこれだけ一生懸命やっているんだったら、これを本気で勉強しなかったら将来後悔するだろうなと思ったんですよね。大学の付属校なのでそのまま東海大に行って、日本史を勉強しながら吹奏楽部に入るとかアマチュアオケに入るという手も考えたんですけど、多分それだと自分の中で絶対後悔すると思って。そう思ったのが音大に行くきっかけでした。
ただ誤算だったのが、学生指揮者を務めていてホルンの練習がなかなかできなかったんです。自分の時間がほとんど取れなかったです。でも今になって考えるとそれらは全部プラスになっています。その時は焦ったんですけど、勉強したことや味わった様々な経験が全部今に活きているから良かったなと思います。
音大に進むと決めてからはレッスンなどは受けていましたか?
高1の時の合宿で長野県の志賀高原に行ったんですけど、そこで後に僕が師事することになる元都響の伊藤先生にお会いしたんです。教えに来てくださっていたOBの先輩の先生で、紹介して頂いてその時はパートレッスンを見ていただきました。そのレッスンがとても良かったんですよね。イメージが180度変わって、自分たちでもびっくりするくらいサウンドもすごく変わったのを体験しました。
それで2年生になる時に音大受験を相談した際に、顧問の先生も武蔵野音大のトランペット科を出ていたこともあり、じゃあ武蔵野に!ということになって伊藤先生にレッスンをお願いすることになりました。
誤解を招くかもしれないですけど、僕の中で藝大を受けるっていうのは選択肢として最初から無かったんです。
武蔵野に行きたいという思いしかなくて。その当時はよく分かっていなかったというのもあるんですけど、尊敬する先輩の先生がいる学校に行きたいというシンプルな憧れから始まっていたから、学費がどうとかは気にしていなかったです。そこはもう親には本当に感謝です。
両親に音大に行きたいと伝えた時はどのような反応でしたか?
夏合宿の間にすごく悩んで、帰りのバスの中で音大に行くということを決めて、家に着いて開口一番に音大に行きたいと伝えました。母親は「いつか言い出すと思ってたよ」と言って、父親は黙ってそれを聞いていました。
反対はされなかったですか?
されなかったです。音楽に一生懸命打ち込んでいたのは分かってくれていたと思います。自分で言うのもあれですけど誰が見ても分かるくらい一生懸命にやっていたので、言わなくてもそういう気持ちでいることは分かってくれていたんだと思います。
そこから音大を受験するためにどのような準備をされましたか?
まず伊藤先生のレッスンには月一で必ず通っていて、その日は部活を休んで上野の東京文化会館に行きました。それを2年生の10月から始めて、受験が近づいたら2週間に1度のペースで通っていましたね。そして顧問の先生の奥さんにピアノとソルフェージュ、聴音を見ていただきました。休日練習の午前中だけ休んだり、部活が終わった後に先生のご自宅に行きました。楽典については顧問の先生に部活が終わった後に見ていただきましたね。だからホルンと学生指揮者、受験勉強と学校の勉強と結構大変でした。
大変というよりは楽しんでいたけどね(笑)
大学受験当日のことは覚えていますか?
僕は指定校推薦で入ったので、国語とか英語とかは免除でした。だから試験はホルンとピアノと音楽理論だけだったと思うんですよね。概ね思い通りにはできたとは思います。
でも周りの金管の受験者達のピアノの弾けなさっぷりにはびっくりしましたね!目の前の人が指一本で弾くレベルで。音大を受ける人はピアノとかみんなものすごく弾けると思っていたから「えっ!」て思って。僕は子供の頃から弾いていたのでピアノに関しては普通にできたんですけど、僕の同じグループがみんなそんな感じだったからピアノは大丈夫だろうって思いましたね(笑)
ホルンの受験曲はサン・サーンスの演奏会用小品でした。どんな演奏したかはあんまり覚えてないけど、一生懸命吹いたかな?
大学生活ではどこに住まれたのですか?
1、2年生の時は寮でした。1、2年生のキャンパスは埼玉県の入間市にあって、通えなくはなかったんですけど、往復で4時間半とかかかっちゃうから非常にもったいないと思って寮に入りました。そういう意味でも環境は良かったです。練習もたくさんできたし。何より良かったのは男子寮にいる人達は熱い話が好きで、夜中まで音楽の話を熱く語っていました。ただまあ寮が古すぎてやばかったんですけど(笑)もうボロボロで、それがまた楽しめる要素でもあったんですけど。
大学に入ってからそれまでと変化したことはありますか?
やっぱり練習がたくさんできるのは最初は嬉しかったですね。高3の時に思うようにホルンの練習が出来なかったので、自分次第でいくらでも練習時間を取れるというのは大きかったです。演奏会にもすごく行ってて、日本のオケだけでなく外国のオケもいくつも聴きました。シカゴ響も聴いたし、ウィーンフィル、モスクワ放送響、フランス国立管など。
それはすごく勉強になったし、そのために音大に行ってるからそこは惜しまずに行きました。 他の遊びとかはあまりしなかったですね。それが遊びと言うか、一番楽しいことだったから!
大学に入ってからレッスンはどうされましたか?
引き続き伊藤先生についていたのですが、途中から大学に招聘教授としてハンガリー国立管弦楽団のラースロー・ガール先生が来てくださって、試験で上位3名に入るとその先生のレッスンを受けられることになったんです。でも1年生の前期の試験が非常に悪くて、たぶん下から二番目でした。ものすごく落ち込んでプロを目指すのは無理なんじゃないかと思ったんですけど、そこから自分を見つめ直して練習方法も変えました。勘違いしてるところも多々あったので。そうして取り組んだらなんとかその枠には入れることになって、ガール先生のレッスンを受けることになりました。
ガール先生はヨーロッパの音大のペースと同じだと思うんですけど、エチュードとかソロの進み方が自分の想定を超えていました。持っていった曲が終わると「次は?」って言われて、「えっと、、、以上です(汗)」みたいな感じで。
伊藤先生とガール先生、両方から課題を出してもらっていたのですが、なかなか追いつかなかったです。
3年生の秋にガール先生はハンガリーに帰国されて、その頃N響に入られた日高先生の演奏に感動して、伊藤先生にそのことを話したら紹介して頂きました。多分今の僕と同じ年齢だったんじゃないかな。偶然、家がすごく近かったので先生のご自宅で月一回レッスンして頂きました。それまでホルンに対して持っていたイメージが短期間のうちにガラリと変わりました。卒業後も見て頂くことになるのですが、厳しくも本当に優しい方で苦しい時にいつもそばにいてくださったのが日高先生でした。
4年生の秋、悲しいことに伊藤先生が亡くなられました。その後学校では日高先生と同じN響の今井先生の門下に入りました。今井先生のご指導でそれまでの学生生活で積み重ねてきたものが最後の数ヵ月で一気に繋がった感覚でしたね。
4年間色々あったけど最後はトップの成績で大学を卒業できました。お二人にはレッスン以外にも色々な仕事で使って頂き、現場で一緒に吹くことで多くのことを学びました。
卒業後の進路についてはどう考えていましたか?
伊藤先生にはプロになりたいと言っていたし、最初からオケに入りたいというのは一貫していたんですけど、絶対的になれるという自信はしばらく持てなかったんですよね。最初の試験の成績も悪かったですし、学校の中でずば抜けて上手かった訳でもなかったので、教職に就くための準備も並行してやっていたんです。自分の父親が大学の先生をやっているというのもあって、
教員にも魅力を感じていました。やっぱり資格として教員免許は持っていた方が良いというのもあるし、教えるということは自分がプレイヤーになったとしても絶対することだから。
大学3年の時に初めてプロオケのエキストラの仕事をいただいて、そこからちょくちょくプロオケに呼んでもらえるようになったんです。あくまでもちょくちょくだったのでそれがずっと続くかどうかは分からない状態でした。そうしたら4年生の秋に、とある学校の非常勤の話が決まりかけたんです。面接まで行って多分僕がそこでやりますって答えたらそのまま決まったと思います。
安定とか社会的なことを考えたらどうかな?と思ったんですけど、そこで改めて本当にプロになりたいのかということをすごく考えた時期でした。 先生との約束も果たしたいし、それが一番の希望だけれどプロになれると確証はなかったので。就職はしたいし、どうなのかと。
友達にも話さず一人で悩んでいたんですが、ある日の夜に親に相談したんです。その時に父親が「自分がやりたいことをやりなさい」と言ってくれました。僕の人生を決めた一言だったと思います。結局その非常勤の話は断って、そこからは教員になることは自分の中から消えてホルン一本でやっていくと決めました。だからずっとホルン一本でやっていたようで、グラついていた時期もありました。
大学を卒業してからはどんな生活をしていましたか?
卒業してすぐの4月に、あるオーケストラの一次試験を通りました。僕を含めて三人が二次に進み、半年間ほど実戦で実力を見てその上で二次試験をやることになったんです。自分でもびっくりするようなペースでいきなりそういうことになりました。
でもやっぱりいざオケに行ってみると経験値が違いすぎて、分からないことも多いし、とにかく圧倒されちゃって。ダイナミクスのレンジの幅も違うし、和音のハモリ具合も学生とは全く違うし。そもそも音楽への理解、仕事をする上での体力、精神力がまったく足りなかった。そこで半年ぐらい一生懸命やりながらも悩みました。結局そのオーディションは誰も通らなかったです。
次はある別のオーケストラを受けに行って、最後の2人まで残りました。その時も誰も入らなかったんですけど、僕はあと一票だったらしいんですよね。
もう本当に悔しすぎる!ということがその後もかなりの回数連続して起こったんです。
「惜しいね」といろんな人に言われたんですけど、でもその一方で「縁があるところに決まるよ」とも言われて。オーディションはいざ募集がかかってから準備しても間に合わないから、継続してやることがとても大事で。
でももっと早く上手くならなければ駄目だなと思って、外国に勉強に行った時期もありました。そうやって紆余曲折、オーディションで最後の最後で落ちるというのを4年間で10回くらい。
一次で落ちる時のへこみ方とまた違うんですよ。なんか名指しで否定されているような気がして、目立つしね。でも裏を返せばチャンスはあると、そういう風にポジティブになるべく捉えるようにしていました。自分の中で絶対しようと決めていたのは、良くても悪くても講評を聞くこと。すごく気が重いんですけど、連絡先をどなたかから聞いて電話して、「この前受験した者ですけど」と言って印象とかを聞いていました。
その講評と自己評価が必ずしも一致するわけではないんですよね。セクションの人が4人いたら4人とも全く同じ意見なわけでもなく、それぞれに違う意見がある。そういうのを聞いて自己評価とすり合わせて、課題を見つけて少しずつ向上していくということを続ける。落ちても落ちっぱなしにはしない。それだけはやろうと思っていました。
フリーランスは4年近く続いたのですね。
地道に講評を聞くとか、そういうことがきっかけであったかどうかは分からないですけど、オーディションがきっかけで結構仕事はさせてもらっていました。いろんなところから声をかけてもらって。フリーって時間が自分でアレンジできるので、それが良かったのか国内のオケはほとんど行ったかな。スケジュールが合わなくて行けてないところは三つくらいです。だから色んな人に会えたし、様々な人の話を聞けてそれは今でも良かったなと思っています。すぐにオケに入っていたら他に行きたくてもなかなか調整できなかったりして、チャンスに恵まれなかったと思うんですけど。
同じことを言われたとしても、オケに入りたいから自分の耳が開かれている状態なので色々吸収できたと思います。そういう意味では飢えた状態でそういう場を作ってもらえたのが良かったですね。
海外にはどちらに勉強に行かれたのですか?
オーストリアの講習会に行きました。チロル州のテルフスという山に囲まれたきれいな町でペンツェル、ガーク、アプ・コスターのレッスンを受けました。その講習会の前に3週間くらいドイツに行って、観光であらゆる街を巡ったり、作曲家の生家とかコンサートホールとかにも行きましたね。そして最後の10日間でマスタークラスを受けました。人生観が変わりましたね。
一人で行ったんですけどドイツ語が間に合わなかったので、行く前に毎日テレビで英会話講座を見て、日記を英語で書いたりして自分から発信できる英語を身に付けるようにしました。聞いて分かるではなくて自分から話せるように。ドイツ人はみんな英語が話せるから助かりました。それから毎年、数ヵ月ずつドイツに勉強しに行きました。ミュンヘンの講習会で仲良くなったドイツ人の友達の部屋に居候させてもらって。東京でドイツ語学校にも通って、あの頃は苦しかったけど気持ちは充実してました。
4年間のフリーを経て兵庫芸術文化センター管弦楽団(PAC)に入られたわけですよね?
PACはオーディションの2回目で入ったんです。1回目の時は補欠合格で、「またかよ!」と思って(笑)若干へこんでた時にPACから連絡が来て、エキストラに呼んでもらったんです。入って2年目ぐらいに聞いた話なんですけど、佐渡さんが「この間の子惜しかったから呼んであげて」と仰ってくれたみたいで。それがきっかけでエキストラに行っていたんですけど、その2年後の2011年にあったオーディションで入ることができました。
その時のオーディションは下吹きで受けられたのですか?
日本はドイツを手本にしているから多くの場合分業化が進んでいるんですけど、厳格に上下というのは日本ほど外国のオケにはなくてアメリカとかには他の考え方もあるんです。ユーティリティプレイヤーというのがいて、つまり上も下も吹ける奏者ですね。
PACのオーディションはそういう考えで、基本的には上吹き、その中に下が混じってくる結構過酷なオーディションでした。一番バテた時にジークフリートのホルンコールを吹かなければいけないんですよ。1回目の時はそれが途中で上手くいかなくて多分落ちたので、2回目に受ける時はこれが吹けるようにと準備していました。やっぱり最後にワーグナーと言われて、「またかよ!」と思いました(笑)それが吹けたから、手応えとしては1回目よりは良かったかなと思っていたら受かりました。とりあえず決まったと。
PACは契約が期限付きなのですよね?
最長で3年間です。基本的に3年契約ではなくて、1年契約を更新して最長で3年です。
活動が関東から関西に移って何か不便などはありませんでしたか?
特にストレスはなかったですね。兵庫は神奈川と結構雰囲気が似てて、居心地がすごく良かったです。でも外人といる時間が長いからあまりどこにいるかというのは気にならなかったですね。それよりも自分が吹ける場所がある方が嬉しくて。
オケに入ってからの苦労はありましたか?
フリーの時は一回一回が勝負で、毎回良い状態で臨んで信頼を勝ち得ていく感じでしたが、オケに入ってもそれは一緒でいつも良い演奏をしなければいけないので、ペース配分には気を付けていました。あとオケに残れても3年という危機感があったので、安心できるわけでもないし、むしろここで気が弛んだり感覚が麻痺することの方が危ないという感じでした。
周りからも「あと何年?、今何年目?」と絶対に聞かれていました。一番自分が気にしているんだから、なんでそこえぐるかなっていう(笑)10人中9人は聞いてきたと思います。でもPACはそういう場所だと思うんですよ。そうやって聞いてくれることは絶対いいことだと思うんです。期限があるという事への焦燥感、一番あったのはそれかな。
思い出の演奏会などはありますか?
PACは指揮者もソリストも凄い人が来るんですよね。指揮者で思い出に残ってるのはネヴィル・マリナーかな。亡くなられたけど。これだけ脱力してさらっとしたリハーサルなのに、一番良い演奏ができるというのはどういうことなんだろうって。
すごく細かくて棒も明瞭ですごく良いリハーサルなんだけど、本番はうまくいかないということは割とあるんですよね。大したことを言われていないのにすごくいい本番だったのが、マリナーとかフェドセーエフとか。そういうクラスの指揮者が来てくれてとても良かったです。
ソリストにもトランペットのマティアス・ヘフスとかホルンのバボラーク、ドール、アンサンブルウィーン・ベルリンなど。ヴァイオリンはコパチンスカヤとか元ベルリンフィルの安永さんとか挙げたらきりがないくらい!
トゥッティで乗ってくれる人にも、ホルンだったらゼンプレーニやヘーグナー、クレベンジャーなど。他の楽器にも世界的に有名な奏者が来てくれてました。その人達と演奏するだけでなく、飲んだり話を聞けたりして全てが良かったですね。
オーケストラの雰囲気はどんな感じでしたか?
それは正直悩みの種で、国籍がみんなバラバラなので感覚が違うんですよね。雰囲気はいいんだけどそれはアウトだろみたいなことが、ある国では別に気にすることではなかったりとか、そういうことはいろんな場面でありました。それでお互いの価値観とか多様性を学べましたね。
雰囲気はプロフェッショナルというよりは、終わることのないフェスティバルオーケストラみたいな感じです。一つの演奏会が終わったらまた次の音楽祭みたいな。
失敗したところをつつくとか改善点を議論するというよりも、良かったところを称え合うみたいなそういうところがありました。それを日本人に言ってもらえるのはもちろん嬉しいけど、外国人に言ってもらえるのはすごく自信になりましたね。だって向こうの音楽じゃないですか?日本人には感覚的に分からないところが多いから、それを外国の人に良かったって言われた時はこれでいいんだなと思えました。
PACには何年間在籍されましたか?
2年9ヶ月かな?欧米に倣って9月からシーズンが始まるんですけど、3年目が始まって4ヶ月目の12月に神奈川フィルから契約団員の話があったんです。結婚することを決めていたし、今後どうしようというのをリアルに考えていた時期でした。外国も頭に入れながら次の場所を色々考えていたのですが、まさかの地元!神奈川フィルにはもともとエキストラにも行ったことはあったんですけど、まさかそんな話になるとは思ってなかったですね。
その時はオーディションはなかったのですか?
そのときは期間契約団員ということでオーディションはありませんでした。いまの立場になる時はあったんです。14年7月から神奈川フィルの契約団員になり16年の春に契約団員のまま公募のオーディションを受けて、正式に団員になることができました。
神奈川フィルに入ってから生活はどのように変わりましたか?
さっきも言ったように、毎回ベストの状態でというのはこの仕事をやっている以上変わりはないけど、常に演奏する場所があるのとないのでは違います。精神的にも大きく違うし、やっぱり神奈川フィルというオケの名前があることで信用度が変わってきます。他業種の社会人とかと話した時に以前と反応が違うなというのは特に感じますね。それは自分の力というよりもオケの力だと思うんですけど。
そういった意味で仕事の枠も広がったし、精神的にもだいぶ変わって人生設計もできるようになりました。何より一つ、伊藤先生との約束を果たして、スタートラインに立てましたという報告をお墓にしに行けたことが大きかったです。
神奈川フィルの雰囲気はどうですか?
一言で言うと温かいオケです。父親世代が多くて演奏はもちろんだけど、私生活とか普段の中でいろんなことを教えてもらえてすごく良い職場だと思います。人柄が良く尊敬できる人が多いです。最近は同世代や若い奏者が続々と入団して新しい風が吹いている気がします。
心に残っている演奏会などはありますか?
常任指揮者の川瀬君が僕と歳が一緒なんですけど、すごく勢いを持っていてそれが演奏にも表れているし、オーケストラに対して上昇志向の影響を与えてくれています。一つの演奏会というよりはその流れがいいなと思いますね。
他には以前、首席客演指揮者だったゲッツェル。彼がウィーンの曲を振ったりすると、現地の血と言うか、勉強して得られるものではない本物の魅力みたいなものを与えてくれる指揮者でした。
定期演奏会で大曲を演奏した充実感というのももちろんすごく良いものですけど、学校公演とか地方公演で子供に間近で接した時のことをよく覚えています。そこで感動したとか、心に残ったという声を子供達から聞くとやっぱりこの仕事は必要だよねと思います。大人のたしなみとか教養とかいう感じのクラシックも必要ですけど、そういうことよりも初めて感じる空気の振動とか、初めて体験するオーケストラの響きとか、感動体験に接することの方が大事かなと思います。
最近Twitterで神奈川フィルと仙台フィルのアカウントが盛り上がっていますが、それに関してどう思いますか?
まず知ってもらうことが一番ですよね。クラシックをやっている人達にとってはクラシックのコンサートは身近だと思いますが、普通の人にとってコンサートを含め、ミュージカルや演劇や野球観戦って興味があってもなかなか年間に何回も行くものではないじゃないですか?それを身近なものとしてたくさん来てもらうためには、人の興味を引く活動を僕はするべきだと思います。それは世界的にもやっていることだし、僕は賛成です。
ホルンの2番奏者として普段心がけていることはありますか?
2番だからというよりは、常に必要とされる奏者になりたいし、良い影響を周りに与えられる存在でありたいです。2番としては、1番の人が演奏が上手くいってしばらく経ってから、吹いた本人や周りの人が「もしかして2番が良かったのかも」と思い出してくれたらと思います。そういう感じで隠れるつもりはないけど、俺が俺が‼という感じではなく役に立ちたい、支えられるようになりたいです。
でもやっぱり上手い2番ホルンがいるとセクションはもちろんオケの響きが明らかに変わるんですよね。そういう奏者になりたいなと思います。
今後の目標ややりたいことありますか?
短期間でいいので、前みたいにヨーロッパでいろんなものを見たり聞いたりしてもっと自分を磨きたいという気持ちが一つ。
そして活動の幅も広げていきたいです。体に気をつけながら、息の長い奏者になりたいなと思っています。
最後にホルンを吹いている学生や、プロを目指している方にメッセージをお願いします。
まずは演奏会に行きましょう!オーケストラに入りたいんだったら、アンサンブルばかりではなくオケの演奏会にも行きましょう。友達と一緒ではなくて一人でもいいから、なるべくたくさん勉強しに行ってください。チケットも学生なら安いので。
上手くいってる時よりも、苦しい時とか上手くいっていない時にどう動くか、それがその後を決めると思うし、見てる人はそういうところを見ています。上手くいってない時にこそ腐らずに、諦めないでやっていってほしいなと思います。
中高生の吹奏楽部などでは一番上手い人が1番を吹くことが多いと思いますが、どう思われますか?
僕は伊藤先生に教わったみたいに、楽器の音域は全部吹けるようにするべきだと思います。もちろん向き不向きはあるし、人によって上が得意、下が得意というのはあると思います。でも部活で1番を吹いてる子の多くが、下があんまり上手ではないんです。だけど派手なパートをやってるから持て囃されていて、下が上手な子が凄くかわいそうなんです。本当は低音をすごくいい音で吹けていて、ちゃんとした練習と時間があれば間違いなく上手くなれるんだけど、それがなかなか評価されてない子が多いんですよね。そこは勘違いしないでほしいです。
かと言って僕らが2番4番も大事なんだよねっていう話をすると、 自分は下吹きなんでと言う子が結構いるんですよ。中学生や高校生でそんなことを言わなくてもいいから、上とか下とか関係なくいろんなパートをたくさん吹いてください。特に吹奏楽は音域も離れてないので、決めつけないでみんながどのパートも吹けるようになるのが結果的にパートの力のアップにも繋がるので、そうしてほしいなと思います。
そうですね! 本日はありがとうございました!