2017年3月26日 都響の演奏会後、オペラシティにて
今日は演奏会お疲れさまでした。
ありがとうございました。
先週から大野和士さんの指揮で演奏されていますが、岸上さんから見て大野さんはどんな指揮者でしょうか?
福岡、名古屋の公演の前に新宿区文化センターでフランスの作品をやっているんです。ブラームスと今回のロシアものをやってみて、実はフランスの作品一番しっくりきました。お人柄も素晴らしいですし、僕みたいなトゥッティの団員の名前も覚えてくれて。一回岸川さんって呼ばれたこともあったんですけど(笑)ちゃんと楽員にも接してくれる指揮者です。日本人ということもあって、インバルと比べるとそういう意味で距離が近い指揮者だと思います。
指揮に関しては難しいですが、いい意味で打点がはっきりしない指揮者だと感じています。管楽器奏者だと分かると思いますが、息を準備しておかなきゃいけないっていう時もあるものの、色を変える時にはすごく柔軟に導いてくださる方なので僕はそういう作品をやるのが面白いです。
ブラームスは先日福岡と名古屋で演奏されましたが、東京で演奏する時と違いはありましたか?
やっぱり旅ということもありみんな気合を入れていきますし、お客さんに喜んでもらうために頑張るじゃないですか?
でもみんななんだかんだで地方の食べ物とか楽しみにしているところもあって、頑張りすぎちゃう人もいて。いろいろありましたが楽しかったです。
ホールはどうでしたか?
福岡のホールは僕はすごく好きです。名古屋も福岡もすごく良くて、最後に東京文化会館で演奏した時に現実を見させられたなと思いました。文化会館は文化会館の良さがあっていいんですけど、福岡と名古屋の良さとはまるっきり逆というか。
響きはどうでしたか?
すごく豊かなのが福岡で、名古屋はすごく統一されていて他の音がすごくはっきり聴こえるんですね。それに対して文化会館は柔らかい感じに音が出てるような感じですね。個性がちゃんとあって、どれが良いというわけではないのですが。
例えばドイツの地方の歌劇場とかだったら、ホールの舞台裏がすごく狭くてデッドだったりするんですよ。一昨年に都響の演奏旅行で行って、その時のホールの響きは良かったのですが、舞台裏が狭すぎてお客さんがいるところの階段で音出ししたりしました。本当に日本はホールに恵まれていると思います。
あと名古屋と福岡はお客さんもすごく温かかったですね。拍手とかもびっくりするくらい盛り上がって。名古屋では知り合いもけっこう来てたんですけど、お客さんがこんなに盛り上がるのも珍しいとは言っていました。それは大野さんのお力なのかなとも思います。
福岡や名古屋はおいしい食べ物がたくさんありますが。
めっちゃ食べました(笑)福岡では九響にいる芸大の後輩と消防音楽隊の人と元九響の方で宴会を開いてくださって、焼き鳥のお店に連れて行ってもらいました。焼き鳥屋なのに焼き豚がおいしかったんですけど。みんな食べるのが大好きなセクションなので、それだけじゃ飽き足らず、僕ともう一人の方はラーメンを食べに行こうって。それとは別動隊で行ってた○○さんなんかは飲みすぎちゃったり、この人たち大丈夫なのかと(笑)
演奏に関してはもちろんホルン奏者的には本当にシビアなプログラムでした。
次は岸上さんのことを教えてください。ホルンを始めたのは中学校の吹奏楽部で?
ホルンに関してはそうです。僕の母親がヤマハの講師だったのもあって4歳からピアノはやっていました。昔はそこそこ弾けたんですよ。ヤマハの講師になるためにグレードの試験を受けなきゃいけないのですが、その講師になる一歩手前までは弾けてました。その試験がある直前くらいに同じクラスのかわいい女の子がやめたってのを聞いて、僕もやめるって言って。それ以来高校入学まではピアノはほとんど弾いてないんです。
似たような理由で吹奏楽部もフルートに綺麗な先輩がいたから入ったものの、フルートなんか音が出るわけもなくて(笑)
オーケストラにもちょっと興味があったので、フルートに近いと言ったらオーボエかなと思ったら楽器がないって言われました(笑)僕が中2の時に初めて吹奏楽コンクールに出るような学校だったんですよね。ホルンにした理由は楽器体験でホルンだけプッて音が出て、じゃあホルンかなって。なんでか分からないですけど、ちゃんと第一候補にホルンって書いていたんですよね。
中学2年生の頃にレッスンを受け始められたんですよね?
レッスンを受けるのって音楽家にとってすごく大事なんですよね。スポーツでも何でもそうだと思いますけど。
特に僕の場合は中1で始めた時には、ホルンが僕一人しかいなくて完全に独学でやっていたので、inFとかの意味が分からなかったんですよね。絶対音感がついていたので曲を聞いて真似をするしかできなくて。しかもホルンって倍音が多いから指がほとんど一緒じゃないですか?だから絶対音感がついているとある意味すごく邪魔だったんですよね。それが解決したのがレッスンを受けた時でした。
先生はどなたから紹介されたのですか?
うちの母も音楽をやっているだけあって、親戚に昔読響で働いていたフルートの方がいたんです。
そこで読響関係の先生を探してもらおうって言って、既に退団されていますが冨成先生という方に習い始めました。
高校は音楽高校に?
家の都合で京都に引っ越さなければいけなかったので、京都市立音楽高校(現:京都市立京都堀川音楽高校)に入りました。
いつから音楽の道に進もうと思ったのですか?
変な話、僕は音楽以外の成績がめっちゃくちゃ悪くて。音楽はもともと好きだったのですが、小学校の時にやりたかったのは考古学でした。エジプトとか歴史がある建物とか風景とかが好きで、考古学者になりたいって。まあそんな頭なんかあるはずもなく。
それで、レッスンを受けてホルンでやっていくのも面白いかなって思い始めたのがきっかけでした。中学生の時にこれから頑張っていくっていうことで楽器を買ってもらいました。
両親からの理解もありましたか?
そうですね。母が音楽やっていただけあって。まあ食っていくのが大変だと気づいたのは音楽高校に入ってからですね。
音楽高校ではどういう勉強をされるのですか?
普通に現代文とか数学とか英語とかに加えて、ソルフェージュの授業が週に4回あったかな?新曲の視唱と聴音、あとは音楽史だったり結構いっぱいあったんですよ。そういう風に授業があって、必ずオケの授業もあったんですよね。吹奏楽は中学でやってましたけど、なんちゃって吹奏楽だったので。
楽器の練習時間はあるのですか?
練習時間は基本的には朝早く学校に行って朝練みたいな感じ。練習のできるレッスン室が恵まれたことに20部屋あったんです。でも1学年40人のクラスが3学年あったので、単純に120人で20部屋の争奪戦でしたが、学校が京都のド田舎にあって外で吹けたので山に向かって吹いたりしました。最終的には部屋で練習した方が効率がいいことが分かったので部屋で練習しましたけど。
男女比はどれくらいなのですか?やはり男子は少ないですか?
圧倒的に少ないです!過去最高って言われた僕の学年で男子が8人でした。一個上の学年は2人しかいなかったです。
どういう生活でしたか?
あんまりこういうところでは言えないですけど、ご想像にお任せいたします。
着替えとかも必然的に教室から出ていって、僕らは狭い図書室とかで着替えてました(笑)
高校生の時にあのバジル・クリッツァーさんと同じ先生に習っていたのですよね?
バジル君はあんなに有名になって。本当に良くしてもらって僕は知り合ってくれてありがとう、ラッキー!って思ってるくらいです。僕は中学3年生の春に京都に引っ越したんですけど、二人ともその時は小山亮先生の門下だったんです。バジル君、君と言いつつも僕の一個上の先輩にあたる人なんですけどね。
同じコンクールにも出られたのですよね?
よくご存じで。彼は見た目こそ外人なんですが、完全に中身は京都人なんですよ。関西弁べらべらですし。
今でこそ関西弁を隠してるのかな?怪しいですけど。二人で話している時はすごい関西弁で喋っています。
京都のソロコンみたいのがあるんですよ。彼と一緒に関西大会まで残ったんです。そこで彼と同じステージで吹いて僕らは同じ賞をもらったんです。
そのころから仲良かったのですか?
仲良いというか、音楽高校でホルンで男と言ったら僕ともう一人しかいなかったんです。ライバルがどれくらい吹いてるのか気になりましたし、変な話今の学生にはあまりないかも分からないですが、僕はギラギラさせてるような感じの嫌な高校生だったんです(笑)たぶん先輩からは嫌がられていたかもしれないですね。
バジル君はすぐ留学してしまったんですけど、コンクールの後に話をしたんです。バジル君の方から話かけてくれたのかな?すごく良かったよみたいな感じで言ってくれたのですが、僕は調子に乗っていたので無愛想な対応をしてしまったと思うんです。それにも関わらず、彼はその後も覚えていてくれいました。
一気にすっ飛んじゃいますけど、僕は藝大を卒業してから一回留学しているんです。その時に住んでいた街の歌劇場のフェスティバルがあったので聞きに行ったら、ほんとにたまたま彼が来てて「え?なんでいるの?」って。そこからいっぱい喋るようになりました。その時にはもう僕はギラギラしていなかったので!
その後藝大に入られましたが、藝大を選んだ理由は?
僕は藝大一本に絞っていたんです。京都に住んでいるとあまりに居心地がいいために京都から出ないんですよ。よそから来ているものの、京都の環境の良さを知っちゃったんです。なんでも揃っちゃうんですよね。大阪とかだと海外のオケとかたくさん来たりして、僕が一番初めて衝撃受けたのがサンクトペテルブルクのオケでした。その時はチャイコフスキーを演奏しててホルンセクションとか本当に凄かったんです。自分がその中でギラギラしてて井の中の蛙状態なのを悟りましたし、やっぱり京都から出ないとなって思って藝大にしました。
引っ越した理由も兼ねてはいるんですけど、僕は母子家庭なのでいきなり留学っていうのはちょっと経済的に厳しい状況がありました。でも結果的に藝大を卒業できて良かったと思うんですけどね。父親が東京にずっと住んでいたので大学時代は父親の家にいました。そうすればお金もかからないし。
藝大に入るためには楽器も演奏出来なければいけないと思いますが、センター試験もありますよね?
ありますあります!僕は管楽器の中ではわりとまともな成績を残していると思います。一般大学の人に言えないようなレベルで(笑)
中にはセンターをほぼ満点で通ってて東大も受けてた同級生がいるんですよ。東大を合格しているのになぜか藝大を選んだんです。何の楽器かはご想像にお任せします。
藝大に入るためにホルンはどういう準備をされたんですか?
これも一つの捉え方によると思うんですが、藝大に入るためには藝大の先生に習わなければいけないっていうような風潮が世の中にあると思うんです。音大に入るにはその音大の先生に習うみたいな。それって言い方を返せばオケのオーディションとかと一緒で、審査する先生の傾向っていうのはやっぱり知っとかなきゃいけないじゃないですか?その先生のご指導していることに対して納得させるものがないとっていう意味があって。
僕は守山先生っていう当時の教授に個人レッスンをしてもらいました。でもすごくお忙しい方なんですけど、そこは音楽高校の特権で高校3年生になったら一回だけ好きな先生を呼べるチャンスがあるんですね。そういう制度があって僕は守山先生に来てほしいって言ったら来てくれて、それをきっかけにレッスンを受けられるようになりました。ソルフェージュに関しては高校でやっていたので、守山先生には勉強頑張ってねとしか言われなかったです。もちろんホルンも頑張らなきゃいけないんですけど。
藝大に入ってからはどういう生活でしたか?
今の学生の子とあまり比較にならないかもしれないですが、有難いことにすごく仕事が多かったですね。一年生の時からオケのトラとかの仕事をもらっていました。
ホルンの同級生が僕の他に二人いて、その二人もとても素晴らしいんです。一人は現読響首席の松坂君がいて、もうばりばりめちゃくちゃ上手かったです。もう一人はmixtっていう木管アンサンブルに所属している嵯峨ちゃんって言う女性で、国際コンクールで五重奏で入賞したりしてて、お二人からとても刺激を受けました。
その中で揉まれてましたね。基本的には音楽高校の延長線上でそれに加えて仕事がついて回っている感じでした。
変な話仕事が勉強に直結するのが大学時代でした、僕らに関しては。
守山先生のレッスンも受けられましたか?
それはもう本当にお世話になりっぱなしで。やっぱり先生のレッスンは受けたいじゃないですか。学生は先生!先生!ってついて行って、でも先生もお忙しかったのか、僕は逃げる先生を走って追いかけたことありましたよ。電話してもつながらないし。学生食堂で見たよっていう話を友達から聞いて、食堂に行って「先生レッスンお願いします」って言ったことも。凄く良いレッスンをいっぱいしてくださいました。
大学時代からオケに入りたいと思っていましたか?
それはもう高校生の時代に意志を固めていました。楽器で食っていくと決めた人がみんな藝大に入ってるんじゃないのかな?
もちろん好きだから楽器をやっているのもありますけど、なあなあな感じで藝大に行ってる人は見なかったですね。
藝大出身のホルン奏者が各地のオーケストラで活躍されてますよね。
今日も4番ホルンを吹いていた方は僕の一個上の群馬交響楽団の向井さんでした。僕が藝大に入った時の院生には東響首席の大野さんとか、もう一人は読響の伴野さんがいてみたいな。その下の学年には仙台フィル首席の齋藤さんがいてずっと続いていますね。
藝大卒業後はすぐドイツに留学されたのですか?
結果的にはそうですね。ホルンでも何の楽器でもそうなんですけど、メンタル面で直結するじゃないですか?4年生の時に管打楽器コンクールで運良く1位を取れたのですが、調子乗って全然練習しなくなってしまってつぶれかけたんですね。もう全然ピアノが出なくなってしまって、それは力みから来てたりとかしたんですけど、そんな中でもがむしゃらに吹いていました。
当時はオケのオーディションの機会も少なかったのですが、僕が初めて受けたオーディションはN響の首席だったんです。当然ながら身を結ぶこともなく、しばらくオーディションもないやって思って、あと二年間で大成しなかったらもう辞めるっていうつもりでした。コンディションも悪かったので自信もなくなっていましたし。それで留学しようって決めて、守山先生に頼んで紹介してもらったのがフランクフルトにいるフィンランド人のエサ先生でした。
ドイツに留学を決めたのは守山先生のつてもあったからですか?
つてもありつつ、就職したいというのも一つでした。あと僕は藝大でいっぱい仕事をしてた中で、オペラがすごくやりたくなったんです。歌劇場のホルン吹きになりたいなっていう思いがずっとありました。
日本には歌劇場のオケはないですからね。
ドイツは当時100以上歌劇場の職のポストがあるのを知っていたので、それがドイツに行きたいというざっくばらんな考えでした。
ドイツで学んだことはなんですか?
贅沢な悩みなんですが、仕事ならではの辛さってあるじゃないですか?もちろん好きなことやっているんですけど。
最初はその毎回のプレッシャーで怖くなってしまったのを直してくれたことですかね。エサは楽器を吹くのが大好きな人でした。僕は単純に言えばメンタル面が弱かったのと、自分で練習することを怠っていたんです。仕事があると仕事の曲しかやらないじゃないですか?特に上吹き奏者っていうのは一番アシとかでフォルテしか吹かなかったりとかあって、吹き方がごちゃごちゃになっていたのを直してくれる先生でしたね。やっぱり吹き始めたらすごく楽しくなってきて、それから徐々に調子も整ってきて念願の歌劇場での演奏に結びつきました。
それは2年弱ぐらい?
いや、もっと全然短いんです。最初行ってたデトモルトっていう音楽大学で有名な地方のオケに学生契約で入団しました。ドイツには奏者を育てるために学生しか受け入れないポストをちゃんと設けているんですよね。その契約でそのオーケストラに2週間だけいました。2週間後にもともと住んでいた街のオケのオーディションがあって、これを受けてもいいっていう前提で学生契約させてもらいました。
住んでる街のオケはすごく大きなとこだったのですが、そこの歌劇場を受けたらなんとか残ったんです。大変だったんですけどね、六次試験まであって。きっとレベルが拮抗していたのと僕がアジア人っていうのもあったし、ドイツに来てまだ三か月で言葉も喋れなかったのもあったと思います。僕より年下の女の子と三人でずーっとオケスタを次々と吹かさました。ようやく最後まで残って、三人の中で誰でもいいやって話になったらしいですが、その後ホルンセクションに話を聞くと僕を採ったのは全部平均的に良かったからだと。
音もその子たちに対して明るくもなく暗くもなくって言われて、ショックでしたけどね。
そのオケにはどのくらいの期間在籍したのですか?
最初は無期限って言われていたんです。元々いた1番3番を吹いていた女性がご病気で来れなくなっちゃって、戻ってこなくなって2年くらい経ってオーディションがあったんです。その人が戻ってくるまでだったらいくらでも吹いていいよって言われていたのですが、1年もしないうちに戻って来ちゃって(笑)
その時に夏休みで日本に帰ったら都響のオーディションがあるっていう話を聞いたんです。もともとドイツに籍を置きながらオーディションを受ける環境を作りたいっていうのが理想でしたが、そうしたらなんとか通ったんです。
ドイツの経験が都響のオーディションでも生かされたと?
きっとそうだと思いたいですね。もともと学生の頃から都響にはお世話になっていたんです。
オーディションはうまくいきましたか?
こんな言い方するとどうなんだろうって思うんですが、一次はちゃんとうまく吹いた記憶があります。二次は「うーん?どうなんだろう?」って感じで、決して納得いくものではなかったですね。間違いなくそれは伝わっているんだと思いますが。
年齢もまだ24歳で若かったので、そこから育ててくれたのかなとは思っていますし今では感謝しています。いろいろあるんですよね。採用するのに対してコンスタントに平均的に吹けたから採るっていう考え方もあれば、これから30年間くらい吹き続けていくために育てていく人材が欲しいとか、いろいろオーディションによって目的が違うので。
都響に入って最初の頃はどうでしたか?
都響って演奏をお聴きになって感じるかもしれないですけど、ダイナミクスの幅がすごく大きいんですね。特に弱音の美しさが特徴かなと思いますが、金管的にはそこに慣れるのには今ようやく入り口に入ったかな?僕はまだまだだと思うんですけど。音量じゃなくてアタックの種類だったり、すごく考えなくちゃいけないことが多いオケだなと思いました。
そういうピアノはアパッチュアがコントロールされた中で柔らかくないと吹けないし、でもフォルテを吹く時にはうわーって息出さなきゃいけないし。そのギャップになれるのが大変でしたね。フォルテはもともと得意というかそっち系でやっていたのですが、良い意味でも悪い意味でもある程度筋力を使って体を固くして吹くのを緩めていく作業が必要だと感じてましたね。入った時は特に。でも最初の頃はなんでこんなにみんな小さなが音出るんだっていうくらい小さく吹いていて、その中で自分の良い部分も出していかなきゃって思ってました。
都響はマーラーの演奏に伝統がありますが、マーラーに対する思いなどはありますか?
僕はすごくエンターテイメントな作曲家だと思っています。たぶんいろいろ感じるところはあると思うんですけどね。
後期の作品になるにつれて音楽が深くなっていきますし、キャラクターが富んでいますよね。インバルと演奏した時、最初の頃彼ははすごく怖かったです。それでこそマーラーチクルスの最後の方とかは、もういいおじいちゃんみたいになっていたとこがあったのですが(笑)それに対して最初の頃のマーラーとちょっと柔らかくなった状態のマーラーっていうのは大きく差がありましたね。もちろん指揮者によっても全然違いますけど。
でもホルン奏者としては一つの登竜門というか。チクルスはいい経験になりました。僕は結局チクルスの4番だけどうしても乗れなかったのですが、首席の西條さんも有馬さんもすごいプレッシャーの中で演奏されていたのではないかと感じました。
大編成のマーラーでは吹き方は変わりますか?
もちろんフォルテとかは頑張りますが、極端に言えば普段意識していることをそのまま、って感じでしょうか。もちろん本番の緊張感だったり高揚感みたいなものは必要だと思いますが、やっぱり普段意識していることと変わっていないですね。もちろんマーラーのフォルテのイメージはありますよ。
マーラーを振る時のインバルは厳しかったですか?
縦とか合わないものなら一生そこを続けてるんじゃないかっていうくらい繰り返した時期もありました。都響自体もすごく変わっていってるんだろうなと思ったんですけど、インバルってすごい指揮を先振りするんですね。ネットの評判とか気になるから見るんですけど、サクサク進んでいるとかいろいろ書かれていました。サクサク振っているように見えてその中でちゃんとためがあるんです。もちろんテンポは全体的に速いのかなと思う部分はありましたけど、それはそれですごくかっこいいなと思うとこもありましたし。
インバルは「さんはいポン」って指揮を振ってオケが演奏するんですが、その出だしに怖さがないんですよね。それはすごいことなんですよ。出だしに一切怖さがないというのはさすがだなと思います。
それは指揮のテクニックだったり?
圧力?(笑)
2015年から大野さんが都響の音楽監督になりましたが、オケは何か変わりましたか?
明らかにレパートリーが変わりましたよね。最初も言いましたが大野さんの良いところは色が出る指揮者で、ドビュッシーの海とか何回も演奏していますが、そういう曲がインバルとはまた違うんですよね。さわやかというか、本当に色が出るんですよね。
インバルは緊張感とかから来る演奏が印象でしたが、大野さんもオーラがありますけど、それこそ奏者のことを一人一人見てくださってくれます。それが良いか悪いかはオケによると思うんですけどね。優しい方がいいオケもあれば、フレンドリーになりすぎちゃったら逆にダメになってしまうオケもあると思いますし。インバルも怖かったものの都響のことはすごく大事に考えてくださっていると思います。大野さんとの関係も良いと思います。
8年間都響にいて一番思い出に残っている演奏会はありますか?
全部が経験になって今の状態になっているのでどれがこれっていうわけではないですが、マーラーチクルスでだんだん積み重ねていって9番をやった時は、会場もそういう風な雰囲気はありましたしとても盛り上がりました。その後の10番は解き放たれた感はあったんですが、9番はあの時にしか出せない緊張感があったのかなって。ただ単発で9番を演奏するのとは違って。
インバルが匙を投げたわけじゃないですが、自由にやって!ていう箇所が一か所だけあったんです。ヴァイオリンにやっていただけなんで、僕らは聴いていただけですけど。なんでこんなに自由にやっているのにすごく緊張感があるんだろうって、すごく印象的でしたね。それが大きな機転だったのかなと思います。
岸上さんはアンサンブルもたくさんやられていますよね?
たぶん僕はやりすぎなんじゃないかってくらいやってると思います。なぜなのか分からないですけど、有難いことに声かけてもらえるきっかけが多くて。というのもたぶん全国的にホルン奏者が不足しているというのもあると思うんです。それで仕事が忙しくなりすぎて調子崩しちゃったら元も子もないんですが、それだけいろんな団体組んでいるのでいろんな作品に、しかも同じ作曲家だとしても違う焦点で経験できるのはほんとに楽しいですよね。
ホルンアンサンブルも金管アンサンブルもやっていますが何か違いはありますか?
違いは全然ないです!僕は室内楽の延長線がオケだと思っています。ホルンってすごく柔軟に書かれてるというか、そういうソリスティックな技巧を要求される中でのアンサンブルは楽しいですね。ホルンアンサンブルだと、オケのホルンセクションでやっていることをまず意識するようになりました。
いろんなオケの奏者が集まっていると思いますが、予定を合わせるのは大変じゃないですか?
僕はよく予定合わせ係みたいなのをよくやっているんです。今だったらLINEでグループを作ったりすることがよくあるのですが、そういうスケジュールを調整するサイトがあって、スケジュールを入力して〇×をつけていくみたいな感じです。そうしないと絶対予定合わないので。一昔前はファックスとかでやってたという話を聞いて現代で良かったと思いましたね。
そういう意味では楽な時代になったと思います。
20年ぐらい前だと携帯とかなかったじゃないですか?昔藝大の寮に住んでた人は寮母さんの電話機一つで仕事受けてたっていう話を聞いて、ほんとありえないですよね(笑)
今後の岸上さんの目標ややりたいことは?
まず、30歳を超えてコンクールも受けられなくなりました(笑)
1番ホルンと3番ホルンって役割が違うと思うのですが、自分としては世の中の3番ホルン奏者ってきっと1番を吹きたいって思っている人が多いと思うんですね。3番の仕事にもちろんプライドもやりがいもあります。でもそれが分かった上での1番吹きっていうのはすごく違うんじゃないのかなと思っています。そういう意味では目標としては1番も吹ける奏者になることですね。
もちろん室内楽も頑張っていきたいですし、あとはリサイタルは何回かやっていきたいなと思います。去年一回やったのですが、大変さもありましたけど良さもありました。やっぱりリサイタルを開くと練習するんですよ。そういうものをもっと高い水準でやっていくことを30代では続けたいなと思っています。新しいことをしたいって言えば聞こえはいいかもしれないですが、オケマンとしてキャリアを積み重ねていくことももちろんすごく素晴らしいことですけど、他にも何かやってみたいことがあるんだろうなっていう気はしています。
最後にホルンを吹いている学生にアドバイスをお願いします。
今ホルンって死ぬほどオーデイションがあるんですよ。今後埋まっていかなくてはいけないのですが、たぶんまだ時間がかかるんじゃないかと思っています。去年の話では日本のオケだけでホルンの空きが30席あるって聞いたんです。日本のオケって大体ホルンセクションは4人から7,8人必要なんですけど、それだけ席があったら今がチャンスですよとしか言いようがないですね。僕が学生の時みたいに留学しなければ就職口がないという時代とは大違いで、本当に恵まれていると思います。
今情報が溢れかえっているじゃないですか?ネットなどで音源もすぐ聴けるし。学生の子はその中でどの情報が重要なのかが分からないと思うんですよ。それはすごい贅沢でもったいない話だなと思ってて、そういうのを伝えていけるようになれればなと思います。そう意味ではちゃんと生で演奏会を聴くのが大切っていうのを絶対に言っていきたいと思っています。やってはならないですがプロでもミスしてしまう時もありますし。その凄いプレッシャーと戦って音楽で食っていくのであれば、そういう空気を生で感じてほしいですね。でもそこに楽しさがあるからプレッシャーも気にならなくなると思います。
現場での経験をどんどんしてほしいですが、演奏会はお金もかかるのでそこはご両親の協力をって言うしかないですけど。なんでも実際に経験することは大事だと思います。都内のオケはどこも個性があって素晴らしいと思います。もちろん海外オケの良さもあると思いますが、学生券でこんなに安くオケを聴けるのは学生のうちだけなのでぜひ聴きに来てほしいです。
YouTubeで聴けるからいいやって思っている人が多いと思うんですが、そういう人にこそ聴きに来てほしいですね。
こうやってインタビュー受けておいて言うのも変ですけど、言葉で言うより実際音を聴いてもらった方が早いですからね。
是非皆さんにもっと演奏会に来てほしいですね。今日は貴重なお話ありがとうございました。