神奈川フィルハーモニー管弦楽団
首席クラリネット奏者
齋藤 雄介
Yusuke Saito
・使用楽器
Buffet Crampon "Tosca"
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神奈川フィルのホルン奏者である熊井さんのご紹介により、齋藤さんと出会いました。
最初にお会いした時は寡黙で真面目な方かと思いましたが、お話を聞く中で音楽に対する熱い思いと、ユーモアをお持ちになっている方と分かりました。ちなみに、インタビューは北千住の某喫茶店(?)で行い、今までで最長の90分近くかかりました。
インタビュー後には、鉄道ファンには有名である北千住の踏切で写真撮影を行いました。基本的に撮影そっちのけで、上の写真でも見られるように終始テンションが高くにやけ顔でした(笑)とても楽しい時間を過ごせました。
2018年6月25日 北千住の某喫茶店にて
楽器を始めたきっかけ教えてください。
元々、両親が音大出身で地元で先生をやっていました。親父がトロンボーンで、母親が声楽です。
だからなんとなく音楽に対する地盤はあり、小さい頃に母親がピアノを弾いて、それに合わせて歌って遊ぶことは良くやっていました。ピアノも小さい頃はやっていたらしいんですけど、あんまりその頃は好きではなく、結局上手くならなくて。
それよりも小学生の時は体を動かす方が好きになって、3年生の時にスポーツ少年団の野球チームに入ったんです。野球は6年生まで四年間がっつりやって、当時は将来プロ野球選手になりたいと思っていたほどのめりこんでいました。
6年生の時はキャッチャーを守り、副キャプテンも務めていたけど、両親は音楽も何かやってほしかったらしいんです。
中学に入ってもこのまま野球をやりたいなと思ってはいたけど、親が「音楽もやってみたら?」と言ってきたんです。僕が入った中学には吹奏楽部はなく、代わりにオーケストラ部がありました。文化部は女子が多いからちょっと恥ずかしいなと思っていましたが、行くだけ行ってみることになりました。
部活を見学できる期間に最初にグラウンドに行けばよかったものを、なぜか音楽室に先に行ってしまったんですね。当時、男子の先輩も5、6人くらいいて、そこに僕が入ってきちゃったもんだから、先輩達は喜んでしまって絶対に入れてやると言われて。今、余っている楽器はこれだからと言われて、渡されたのがクラリネットだったんです。同級生で同じ部活に入った女子は早い段階で見学に行っていたらしく、すでにみんな楽器が決まっていたんですね。ちょっと行くのが遅かったようです。
当時、うちの父親は違う学校のオーケストラ部を指導していました。さすがにその学校に行くのは嫌だったので、オケの実力的に拮抗しているもう一つの学校に行くことになりました。でも僕が入った年に顧問の先生が変わってしまって、急に弱小クラブになってしまいました。
結局、3年間オケをやったけど自分の中でやりきった感がなくて、高校でも楽器を続けてみようかなと思ったんです。もし大会でいい成績を収めたりしていたら、高校は違う部活に入っていたかもしれないです。当初は中学三年間で辞めるつもりが、そのままだらだら進むわけですよ。
それで、進んだ高校が進学校だったんですけど、1年生の夏休み前くらいから勉強についていけなくなってしまったんです。基本的に成績が良い人達に合わせて授業をするから、自分と上の人のレベルがだんだん離れていきました。試験の成績もどんどん下がり、このままでは本当にヤバイと感じていました。
そこで、「自分に残っているものは一体何なんだろう」と考えた時に、楽器しかなかったんです。これはもう本腰入れてやるしかないと。中学生の時にオケ部に入ったということもあって、オケの曲も好きになり始めていました。楽器をやるのもいいかなと思い始めていた時期と、勉強についていけなくなった時期がリンクしてしまったので、クラリネット一本でいこうと決めました。
音楽の道に進むと決めて、クラリネットの先生の所に習いに行き始めました。そうしたら受験用のエチュードや音階もやらなくてはいけなくなってしまい、それがまた難しいんですよね。もう後戻りもできない状況になっているから、何が何でも食らいつくしかなかったです。そうすると今度は逆に、部活と受験用の曲との両立が難しくなってしまって、高3になってから部活を辞めました。
結局その後、一浪して大学に入るわけなんですけど。
高校の時に習い始めた先生というのが、たまたま僕が小さい頃から知っている方でした。昔、埼玉の大宮に住んでいた時にお世話になっていたご家庭の娘さんに当たる方が師匠の秋山かえで先生で、その先生に習えることになったんです。
中学でクラリネットしか余っていないと言われたのもそうだし、うちの家庭が昔からその先生のお家とお知り合いになっていたこともあって、徐々にクラリネットに引き寄せられていたと感じますね。
話が戻りますが、中学のオケ部に入った時に、両親にクラリネットをやることになったと言ったらガッカリされました。親はチェロとかをやってほしかったらしいんですけど、もしチェロをやっていたら中学で始めても、プロにはなっていなかったかもしれないですね。
クラリネットを始めたことによって、僕の音楽の道が開かれたんだと思います。まあ自分からその道に行ったわけではなくて、いつのまにか引き寄せられていた感じなんですけど。
始めたきっかけとしてはこんな感じですね。だいぶ長くなりましたが。
中学の頃は楽器にのめり込めたのですか?
あまりのめり込んではいなかったと思います。やっぱり運動系でやっている男子よりは、IN(陰)なイメージがあって、あまり思い切ってやれてはいなかったと思います。
練習はどれくらいしていましたか?
平日は個人練習をして、土曜日あたりに合奏という感じだったと思います。一応、大会にも出たんだけど、どれかの大会でタイムオーバーになってしまって。訳分からないですよね。
今思えば、もう少し中学生の時に思いっきりやりたかったのかもしれないですね。
でも、音楽に触れる機会は小さい頃からあって、母親がソルフェージュなど、音大に行く人のためのレッスンを家でやっていました。トランペットの川田君も、家に習いに来ていた時期があったんです。川田君が来てる頃は、もう僕は大学に行ってたんだけど、だから昔から彼の事はよく知っていて。
音大に行くことについて、両親に何て言われましたか?
やるならやってみろ、という感じでした。応援はしてくれていましたね。そうでなければ、レッスンにも通わせてくれなかったでしょうし、決めた以上はちゃんとやりなさいと。
浪人の時にダラけて練習をしなくなった時期があったんですけど、母親がいきなり「エチュードを弾いてみなさい!」と発破をかけてきて、「ハッ!」と気づかされたこともありました。最終的に藝大に入れて、喜んでくれていました。
受験の時のことは覚えていますか?
一次試験で落ちてしまったので、現役の時のことはほとんど覚えていないです。
浪人の時は藝大だけでなく、私立も併願しました。私立になんとかひっかかればと思い、藝大は記念受験みたいな感じだったんですけど、現役の時よりはできたかなと思っていたら受かっていました。
試験でだんだん人数が絞られていくに従って、僕の知っている人が増えていきました。僕が習っていた秋山先生と、
そのおさらい会が終わってからみんなで店で喋ったりして、他の人がどんな練習をしているかなどを聞けました。多分、福島から出てきたのは僕ぐらいだと思うんですけど、東京の知人が出来たのも嬉しかったです。
藝大に受かった時は嬉しいというよりは「本当に?」という感じで、あまり信じられなかったです。
藝大に受かって初めての東京生活はどうでしたか?
初めて一人暮らしをするから、さぞ心細いだろうなと思っていました。学校から歩いて15分くらいの音出しもできず、日当たりも悪いボロアパートに住むことになりました。入学式の前にソルフェージュのクラス分けの試験があって、その試験の前日に初めてアパートに入ったんですけど、やたらと寝られてしまって起きたら試験の10分前でした。それで、急いで大講義室に潜り込んだという思い出があります。
アパートが学校に近かったということもあって、わりと同級生が遊びに来てくれたので、みんなと仲良くなるきっかけになりました。僕らの学年のクラリネット専攻は5人いたんですけど、4人が男だったんです。逆に一つ上の先輩の学年は、5人中4人が女性で、その上ともう一つ上は全員女性でした。その中で、男が4人もいたというのは極めて珍しく、当時のクラ部屋は男くさいと言われていました。
ただ、僕らの学年が本当に仲が良くて、他の楽器を含め、みんなで和気あいあいとしていました。
最初の頃は狭い部屋に男4人で肩を寄せ合って、こっそり練習していました。練習部屋は限られているし、1年生の頃は大っぴらに部屋を使えないので。みんな仲はいいんですけど、試験で誰かが良い成績を取ると、悔しいから自分ももっと練習しようと思ったり、適度にライバル心もありました。
学校に朝一番に行くと、クラリネットの部屋の鍵を開けるために守衛さんに鍵を借りるんですね。鍵を借りる時に紙に名前を書くんですけど、そこに同級生の一人の名前が早い時間に書いてあると、次の日には僕はもっと早く行こうと思ったり。今度は自分が早く行って名前を書くと、次の日にはまた違う人がさらに早く来て。暗黙のライバル心というか、いい意味で切磋琢磨することができました。
今ではみんなそれぞれが第一線の現場で、
藝大に入ってからは先生が変わったのですね。
1,2年の時は都響の三界先生に、3年から院生までは当時教授を務めていらっしゃった村井祐児先生に習いました。村井先生は時には厳しかったのですが、その中でとてもユーモアのある方で、その教えがとても的確でした。自分が上手く吹けなくて全くレッスンをしてもらえない時もあれば、音楽センスについて教えてもらえる時もありました。
コンクールの審査員もされている方で、僕の入場の仕方が田舎臭いという風に言われていました。舞台に出た時に、自分の緊張を和らげるために一度、客席を見渡してからお辞儀をしていました。それが気に入らなかったらしくて、”警備員”が出てきたかと思ったら齋藤だったと。
そのようなセンスについても学ぶことができたのですが、最後の最後まで”警備員”だとか”田舎者”とよく言われました。
楽器のテクニックについては三界先生に叩き込まれたんですけど、それが出来た上で村井先生には音楽をどういう風に見せるかを教えていただけたので、すごくいい先生方につけたと思っています。
その後、大学院に進んだきっかけは何ですか?
ぶっちゃけ言うと、このまま大学を出ると仕事がないと思ったからです。執行猶予ではないけれど、その理由が一番大きいかな。藝大には藝大フィルというものがありますが、大学院生はエキストラで乗ることによって、実地経験を積むことができました。
一つ上の院生の先輩が優秀な方だったので、後に続きたいという思いもありました。ですが、このまま卒業してしまうとまだまだ自分には足りなすぎると思っていたので、もう少し学ばないとマズイとは思っていましたね。
それまでにオケのオーディションなどは受けていましたか?
大学院生の頃にいくつかオーディションはあって、結構受けたんですよ。ちょうどその頃にオケの世代交代があって、オーディションがわりとある時期だったんです。大学2、3年生の時もあったんですけど、
神奈川フィルのオーディションを受けたのはいつ頃ですか?
大学院2年生の6月くらいだったかな?
その時は二次審査まで通してもらったんですけど、結局そのオーディションは誰も採用しないまま流れてしまいました。でも、オーディションで二次まで残してもらえたのはそれが初めてだったので嬉しかったです。
大学4年や大学院生になると、同級生達がちょくちょくプロオケにエキストラで呼ばれて仕事をし始める時期なんですね。クラリネットは人数が多いということもあるけど、他の人が呼ばれているのに対して、自分にはそういう声がかからないのでちょっと焦りを感じていたかもしれないです。
同級生のクラの人たちも少しづつ仕事をしだして、その時に院まで進んだのは僕だけだったんですけど、僕は学生だから仕事がないのかなと思ったりもして。
仕事をするきっかけを探す時期だったというか、どうやってきっかけを作ればいいか模索していました。大学院も2年しかないから、その間に仕事が来なければ、ひょっとしたら楽器をやめたほうがいいんじゃないかと思っていました。
その時のオーディションは結局流れはしたんですけど、終わってから何ヶ月か後にオケから連絡を頂いて、エキストラに呼んでいただけたんです。藝大フィルには乗ったことあったけど、プロオケに仕事で呼ばれたことは初めてでした。
音楽鑑賞会のエキストラだったのですが、日程が空いていたのでOKと返事をしたところ、「ファーストでお願いします」といきなり言われたんです。いよいよプロオケデビューをするという時に急にトップで呼ばれたので、現場に行くまで落ち着かない日々を過ごしました。
プロオケでは一時間半ぐらい前に現場に行って、挨拶をしなければいけないという噂を聞いたりしていたので、とりあえず着いたら最初に会った人に挨拶しようと決めていました。でも誰かは分からないんですけど、最初に自己紹介した人がエキストラの方だったらしいです。最初は団に誰がいるか分からないですからね。それでも温かく迎えていただきました。
それから大学院が終わるまでに、何回か神奈川フィルからエキストラの機会を頂きました。そして、卒業する前の1月頃に二度目のオーディションを受け、残していただいた流れです。
1回目に受けた時はほとんど知らないオケでしたし、それこそ神奈川フィルは一回だけ聴いたことはあったんですけど、「当たって砕けろ」みたいな感じで吹いて帰ってきました。
その後、団員みなさんの顔を知っている状態での2回目のオーディションはすごく緊張しました。
大学院を卒業してすぐオケに入ることになったので、フリーランスの経験をしていないんですよね。たぶん、周りの人は「あいつがオケに入ったのか‼」とすごく驚いたと思いますよ。
それが2003年だから、もう15年前だよね。何も変わってないな、自分というところですね。
入団されて最初の頃は首席ではなかったのですか?
首席ではなかったです。当時は首席という制度は確立していなかったので、ファースト、セカンドどちらも吹くポジションでした。どのようにセカンドが吹けばファーストが楽なのかとか、ファーストを吹くためにはセカンドの気持ちも分からなければいけないので、そういう意味では良い経験をさせてもらったかなと思います。
オケに入って最初の頃は大変でしたか?
26歳になる年に入ったのかな?
当時はオケに定年がなくて、いきなり若いやつが入ってきたみたいな感じだったと思います。僕の世代が一人だけで、僕の次に歳上の先輩が30歳以上だったので、一番下っ端で「なんでもやります‼」という感じでやってましたね。
今年で僕41歳なんですけど、先輩方から見るとその頃の名残があるからか、未だにみんな僕のことをかわいがってくれてる気がするんですよ。
僕は性格的に思ったことを出せる方ではなかったのですが、オケの中で自分を磨きながら、オケの色に染まれるように試行錯誤の連続でしたね。
普通に吹いたのでは聞こえないと言われるし、すごく厳しいことも言われました。「そのままだと試用期間でダメになるぞ」とも言われたり。もちろん嫌味なことではなくて叱咤激励してくれて、僕もとにかくこのポジションを手放すわけにはいかないから、必死に食らいついていくしかなかったです。でも、未だにそんな感じはあるんですけどね。
その後も他のパートでオーディションはあったんですけど、結局入ったのは僕より年上だったりして、長らく僕が一番年下という状態が続きました。木管の人達が本当に温かい目で見守ってくれて、とにかくこの若い者を何とかしてやりたいという気持ちでいてくれたのが分かるんですよね。もっとのびのびと、思ったようにやっていいんだよと。
今では僕よりもだいぶ若い人がたくさん入って、親父臭がするくらいの中堅世代になりました。今の若い人達は本当に上手くて、体力もあってなんでも吹けるし、言いたいこともしっかり言えるのですごく羨ましいです。
この歳になっても自分の足りないところはあるので、未だに勉強させてもらっています。すごくいい雰囲気でやらせてもらってますね。
神奈川フィルで思い出に残ってる演奏会などはありますか?
毎回思い出深いんですけど、実は僕の母親が2007年に55歳で亡くなっているんです。地元のジュニアオケとコンチェルトをやらせてもらう機会があって、母親が聴きに来てくれたのですが、その一か月後くらいに病気が判明しました。
判明してから4ヶ月で亡くなってしまったんですけど、母親の病気が重くなっていく中で、ある定期演奏会でバリトンとオーケストラのための委嘱作を演奏する機会がありました。その曲の歌詞が谷川俊太郎さんの「じゃあね」という詩だったと思うんですけど、その詩と自分の母親との思いが交錯してしまって、本番中に涙が止まらなくなってしまいました。
地元が福島で遠いのもあるけど、神奈川フィルをちゃんと聴かせたことが2回くらいしかなかったのかな。もっと聴かせてあげれば良かったんだけど、そういう思いがリンクしてしまって、終わって立った時には涙が止まらなかったです。
その後のメインの曲が悲愴で、難しいから涙をリセットしてやらなければいけなかったんですけどね。
その定期演奏会は母親との別れのワンシーンみたいになってしまって、個人的には心に残っています。もう少し神奈川フィルの演奏を聴かせたかったのと、
他に記憶に残っているのは、ゲッツェルさんが来た時のマーラーの巨人ですね。あれは衝撃的だったと思います。今までにない神奈川フィルのサウンドが出ていたと思います。
他には児玉宏さんという指揮者が来られた時のブルックナーの4番かな。今まで神奈川フィルの見たことがないような部分を垣間見たようで、すごく印象に残っています。
この前亡くなられてしまいましたけど、シュナイトさんはやっぱり思い出がありますね。僕の試用期間中の最初の定期演奏会の指揮者がシュナイトさんで、ブルックナーの7番を演奏しました。その時僕はセカンドだったんですけど、途中でドソロが出てくるんですよ。それをすごく褒めてくれて若造なりに嬉しかったのですが、その後シュナイトさんにはかなり絞られましたね。
彼との思い出もたくさんあります。すごく頑固で古いドイツのスタイルを継承されている方で、それを見せてくれたのはすごく良い経験でしたね。
オケの雰囲気はどうですか?
雰囲気はすごく良いですよ。和気あいあいとしてるし、それこそ僕が一番若い頃は下っ端という感じでやってましたけど、それでも皆さん温かく僕を育ててくれようとしていました。家族のような感じと言うと綺麗すぎますけど。今はまたさらに若い人がたくさん入ってくれて、その人達がいい風を取り込んでくれています。
僕が入った頃もいいオケでしたけど、昔気質なところもありましたので、そういう時代を見ていたから現在はよりハツラツとしていると思います。若いプレイヤーもみんな上手いし、良い意味で主張もハッキリするし。
若い世代が活気づいているというのは嬉しいし、羨ましいところもあります。僕の世代はかなり少ないんだけど、彼らに負けないようにやらなきゃいけないし、それこそ彼らの見本になるようにしなければいけないと感じています。何の手本にもなってはないんだけど。
定年がなくてうまく世代交代しなかった時期に僕は入ったから、今やっとオケとしても上手いこと回りだしてるということもあって、これからどうなっていくのか楽しみですね!
今後の目標はやりたいことはありますか?
以前から思ってはいたけど、子供のための演奏会などが最近は特に大事だと思っています。
子供の頃に初めて見たり、聞いたりした時の感動や衝撃は忘れてはいけないと思うんですよね。そういうものを子供たちに与えられることをしたいと思っていますね。自分の子供を見ていて思うのですが、初めての経験をした時の目の輝きだとか、そういう反応ほど純真無垢なものはないと思うんですよ。
例えば、音楽鑑賞会とかで有名な曲をただ流れ作業みたいにやるというのはもうそろそろ違う気がして、あえて誰も知らない曲とか現代曲などをやってみても面白いかもしれないですね。もっと子供に楽器やオーケストラを身近に感じてもらえるようなことをしていきたいです。
だから演奏している僕らも当時の感動は覚えていないかもしれないけど、彼らがどういう気持ちで聴いているかを想像して演奏しなければいけないと思っています。もちろんそれは音楽に限ったことではないのですが。
オケの実力が見えるのは定期演奏会よりも、
今後は音教とか自分達で企画できたら面白いと思うんですよね。どんな曲をやったら子供が面白く感じるか、逆に凄い曲をやってみてどんな反応をするか見てみたいですし。
最後に楽器を吹いてる学生や、プロを目指す方にメッセージをお願いします。
まず大事なのは楽器を好きになることですよね。好きになることで自分はどんな音を出したいとか、どうしたら上手くなるんだろうとか、いい音を出すための試行錯誤をすると思います。そのためには練習をして基礎的なことを体に覚えさせるだけではなく、いろんな演奏を聴くなど様々な経験をした方がいいと思います。
例えば、吹奏楽をやっている子達が吹奏楽の曲しか聴かないのではなく、オーケストラなどを聴くことで弦楽器の響きなども知ってほしいです。
今はYouTubeとかでいろんな演奏を聴きやすくはなっているけど、ホールの空気感だったり、実際に現地で聴かないと分からないことはたくさんあると思うんですね。生の空気感というのをどんどん体感してほしいです。
もちろんオーケストラだけではなく、個人のリサイタルなどでもCDでは分からない舌のアタックの音や、ブレスの音がはっきり聞こえることなども実際に感じていただけたらと思います。
生演奏に勝るものはないですね。こっちとしても生で演奏したことは、二度と同じようには演奏できないですからね。その一度きりの演奏に命をかけてやっているので、ホールに来てもらって少しでも感動を持って帰って欲しいかな。
間違えないようにして面白みのない演奏をするよりも、間違いがあったとしても魂を込めた演奏をしたいと思っています。
本日は夜遅くまでありがとうございました。